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第三章 十六

「椿!」  部屋に飛び込んで来たのは志岐だった。  組み敷かれている椿を見て、大きな瞳が零れ落ちそうなくらい見開かれる。 「……何? 忘れ物?」  相馬は動揺せずに椿を組み敷いたまま、微笑さえ浮かべて志岐に問いかけた。 「……椿を、離せ」  志岐は相馬を睨みつける。聞いたことがない、低く唸るような声だった。 「何勘違いしてんの? これは同意の上でのセックスだよ。ねえ先輩?」  クスクスと笑って、相馬は同意を求める。  志岐の前で、それを肯定したくなかった。しかし、これで自分が否定したり抵抗したりしたら、志岐に何をされるかわからない。そう思うと、椿は相馬の言うことを志岐の前で肯定するしかなかった。 「うん……。志岐、変なとこ見せてごめんな。無理矢理されてるわけじゃないから……」  もう、見るな。  男に犯される俺なんか、見ないでくれ。忘れて。忘れてくれ。そして昨日のように、何も聞かずにそばにいて。 「聞いた? 今一番いいところだから」  そう言って、相馬は再び萎えていない自分のそれを、椿の中に挿れるためにあてがった。  志岐の目の前で、犯すつもりなのか。 「待って、待って……っ」 「この子の前じゃ恥ずかしい? ほら、早く出て行って」 「……ふざけんな」  志岐がゆっくりと近づいて来る。  媚薬の所為か、未だ緩く勃ち上がったものを見られたくなくて、椿は膝を内側に曲げて情けなく隠した。 「何が同意だ。信じるわけないだろ。椿の上からさっさとどけクソ野郎」  さすがにこのまま続けられそうにないと思ったのか、相馬は起き上がった。ズボンを上げ、自分のものをしまう。  志岐は椿を見た。汚れた椿の姿を、まっすぐに。 「あんな顔で俺のこと見てたくせに。今だってそんな顔してるくせに、同意だなんて信じられるかよ」  あんな顔、というのが、志岐が帰るときに思わず縋るように見てしまったことだと、なんとなくわかる。  あのとき、俺は。 「助けてって顔してただろ。来るの遅くなってごめん。もし違ったらって思って、迷った。ごめん」  ……なんでわかんの。  俺に関心がなかった志岐が、いつの間にか、こんなに近くに。駄目だ。勘違いだって、言わないと。志岐の身に危害が。志岐の仕事に影響が。  そう思うのに、椿は否定の言葉が出てこない。それを言おうとすると、嗚咽が漏れてしまいそうで。 「……何なんだよ、お前」  相馬がベッドから降りる。声に苛立ちを滲ませている。 「先輩がこんなことしてんのはお前のためだっていうのに、何格好つけて。助けにきた? 助けられてんのは自分の方だろ」 「……っ、やめろ……、お前が執着してんのは俺だろ。志岐に何も話すなっ」 「大切に大切に。結局先輩はそうなんじゃん。何だかんだ言ったって、大切な人だけを大切に。他の奴は切り捨てるんだ」 「切り捨てたりしてねえよ!」  相馬が志岐の前に立つ。  志岐に手を出されるわけにはいかない。椿は相馬を止めようとどうにか起き上がるが、散々弄られた身体はいうことを聞かず、無様にベッドから転げ落ちた。 「椿!」  相馬の横をすり抜けて、志岐が駆け寄ってくる。  冷やりとした手が肌に触れて、身体は驚いて跳ねるのに、心はひどく安心して、涙腺が緩む。 「俺のためって、何?」  椿を助け起こした志岐は、静かに尋ねた。それに、相馬が答える。 「俺とセックスしたら君への嫌がらせをやめる。もう手は出さないってこと」 「……椿を脅したのか」 「そうだよ。脅した」  相馬はあっさりと認める。志岐は支えるように、椿の肩を抱いた。 「椿、そんなことしなくていいよ。社長に言って、警察に行こう。それで全部解決だ」 「いいよ。好きにしなよ。まあ俺は、そんなことで離れる気はないけど。自由になればまた先輩と君を探そう。そしてまた同じことをするよ」 「それこそ好きにしろ。脅されたりしなきゃ椿強いんだろ? 怖いものなんかないじゃないか」  睨む志岐と、微笑む相馬。  相馬の異常性に、志岐がどこまで気がついているのかはわからない。相馬は簡単に、志岐を傷つけるだろう。志岐が怯まずに相馬に食って掛かるのは、それを知らないからだ。 「男に媚び売るだけが取り柄のつまらない奴かと思ったら、違うみたいだね」  相馬が近づいて来る。椿は志岐の前に出ようとするが、志岐はそれを許さない。どこにそんな力があったんだと驚くくらい、力強く椿を庇うように抱く。 「たとえば」  相馬は膝を折る。そして両手を志岐のその細い首に回した。 「相馬やめろ!」 「こうやって首を絞めて、俺は殺人未遂にでもなったとする。殺してやってもいいけど、君が死ぬ前に俺は先輩に止められるだろうから、未遂ね」  手に力は入れられていない。  だからか、志岐の表情に恐怖はない。まっすぐに相馬を見据えている。椿を抱く腕の力が緩むこともない。 「男同士の痴情の縺れ。さぞかし面白いニュースになるだろうね」 「……だから、何?」 「君の仕事はどうなるだろう」  志岐は、ふうっと一つ息を吐いた。 「そうやって椿を脅したのか。なるほどな。だけど生憎だったな。俺はこんな仕事に執着も何もない。なくなったらなくなったで困りもしないんだよ」  志岐が怖がらないのは、本当に、相馬の危険性がわからないからか?  椿ははっとして志岐を見つめる。それに気がついたのか、志岐は相馬からやっと目を離し、横目で椿を見た。  目が合う。微かに笑っているようにも見える。  わかってしまった。  志岐は、怖がっていないのだ。自分が傷つけられることを。それはいつもの自傷行為と同じだろうか。   ……いや、志岐は怖がっていた。姿が見えないストーカーのことを。身に迫る危険を。それなのに、今は、なぜ? 「椿がこんなことして守るものなんか何もない」  自分が。  自分がそうさせているのだ。  椿はやっと気がつく。今椿の方が、恐怖を感じているから。脆くなっているから。  昨日と同じだった。椿を守ろうとして、志岐は恐怖を意識することさえせずに、相馬に立ち向かっている。  人のために、俺のために、こんなに強くなれる奴だったのかと、椿は唇を噛み締める。 「散々な言い様だね。先輩が我慢してきたこと、君は否定するんだ?」 「するよ。無駄な我慢だ。俺の下劣な仕事のために椿が汚れることなんかないんだ」  それならと、相馬が両手に力を込めた。完全に息ができないほどの力ではないが、喉が締り、そこから引き攣れた声が漏れる。 「相馬やめろ!」  椿は志岐の腕の中から出て、相馬の腕に飛びつく。 「止めても、こいつはそれを望んでないよ? 頼まれてもいないことしてどうすんの?」 「頼まれてとかそんなことじゃねえよ! 志岐がいいって言ったって俺が嫌だ! 志岐が傷つけられんのも仕事できなくなるのも俺が嫌だから!」  相馬は、志岐の首を絞めたまま、膝を立てる。上から伸し掛かるように、さらに力を込めた。 「何でもするから! いくらでも何でもするから! 志岐には手を出すな!」  下肢の力が抜けた自分では、腕に飛びついたところで相馬を止められない。椿は瞬時に判断し、志岐の首に纏わる相馬の指に噛み付いた。 「……噛むのは反則だって、俺に教えたくせに」  相馬が薄く笑う。力いっぱい噛んでいるのに、手を剥がす様子はない。  ……躊躇っている暇はない。  手ならもういつもと同じくらいには、力が入るだろう。  折る、か。  相馬の薬指に手を掛ける。手の背へ向けて、指を曲げる。 「やっぱそう考えるよね。骨折れたらさすがに力入んないからね」  次の瞬間、椿は腹を蹴られて転がった。蹴られるだろうなとは思ったから、なんとか受け身をとってすばやく体勢を立て直そうとしたが、思ったように身体は動いてくれない。起き上がるまでに時間がかかる。  必死に頭を上げると、相馬は椿を蹴るときに立ち上がり、志岐の首から手を離していたらしい。咳き込む志岐を冷たく見下ろしているのが見えた。 「か……っは……!」  咳き込む志岐に、椿は血の気が引く。  椿は痛む身体を引きずって志岐と相馬の間に膝を着く。そして頭を床に擦り付けた。生まれて初めて、人に土下座をした。 「志岐に、手を出すな……! 頼むから! 何でもするから!」 「つば、き……! んなこと、言うな! お前がこいつの言いなりになるって言うなら、たとえこいつに何もされなくても、俺はもう仕事なんかしない!」 「志岐っ」  相馬はそんな椿たちを、無表情で眺めている。

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