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第三章 十七

 何を思っている? 志岐にまだ何かするつもりか?  椿は頭を下げながらも、志岐に次に触れようとするなら、何をしてでも止めようと決心していた。  やがて、相馬がぼそりと何か口にした。聞き取れず、椿は頭を上げる。 「相馬?」 「……カッコ悪い。先輩」  今度ははっきりと口にする。相馬は椿を嘲るように笑った。 「素っ裸で俺に懇願して、そんな華奢な男に庇われてさ」  そんな相馬の言葉を聞きながらも、後ろで志岐の呼吸がやっと整うのがわかり、安心した。  よかった。大丈夫そうだ、志岐は。志岐さえ逃がせればそれでいい。どう言ったら、志岐はここから逃げてくれるだろう。どうしたら、志岐を守れるだろう。 「結局、俺の言葉なんか……」  小さな声が聞こえ、椿は後ろの志岐に集中していた意識を、相馬に戻した。  相馬は椿を見て、笑顔を消していた。しかし無表情なのではない。傷ついたように、顔を歪めている。 「もう、いい」 「相馬……?」 「もう、そいつには何もしない」  相馬は椿たちに背を向ける。さっさと服を整え、荷物をまとめる。  椿は、それを見守ることしかできなかった。 「じゃあね、先輩」 「相馬?」  相馬は最後にコートを羽織り、椿の前に膝を着いた。 「カッコ悪い先輩なんか、もう見たくない。だから、バイバイ」  相馬はそう言いながら、椿の頬にキスをした。その唇は、震えていた。名残惜しそうに唇を離し、泣きそうに揺れる瞳で椿を数秒見つめてから、ゆっくりと腰を上げた。そして背中を向ける。  見たくない? そう言いながら、キスをしたのは、なぜ。あれほど酷くしておきながら、急に身を引くと言い出したのは、なぜだ。  結局俺は、相馬の言葉を聞き取れないまま。あのときと変わらない。愛梨のときと、何一つ……! 「相馬!」  叫んだ椿に、相馬は振り返らず、しかし足を止める。 「何? 志岐天音には、もう手は出さない。それでいいでしょう?」  それでいい。それだけが自分の望みだった。  でも相馬は? 相馬とは、このまま何も関係が変わらないのか? 和解できるとは思っていない。しかし、このまま、相馬が何を思っているのかわからないまま、また離れるのか? 「引き留めるなら、先輩を犯す」 「志岐に手を出さないなら、俺は全力で抵抗する」  ああそう、とだけ言って、相馬は部屋を出ていこうとする。  なんと言えばいいのかわからない。何を言えって言うんだ。  両手を握り締める。  自分が何を言いたいのか、上手い言葉が出てこないことがもどかしい。志岐に昨日貰った優しい気持ちを、相馬に伝えることはできないのか。思ってもいない耳心地の良いことを言おうとしてるんじゃない。そうじゃないんだ。どうしたら伝わるんだ。  やはり、俺には無理なのか。  椿が諦めようとした時、志岐がそっと背中を押した。振り返る椿をまっすぐに見つめて、その唇が「行け」と動く。 「相馬、俺は抵抗するから……っ、殴って蹴って抵抗するから、だから遠慮せず来い!」  椿は叫んだ。相馬の背中に向かって。  見慣れない、成長した後ろ姿。けれどきっと、中身は成長できていないんだろう。自分も、相馬も。 「……何言ってんの」 「俺の周りの人じゃなく、俺んとこ来い! 我慢しないで犯しにでも喧嘩しにでも来い! 何も隠さないで話せ! 話をしよう……っ、相馬」  さっき聞いてもらえなかった言葉。しかしもう一度、椿ははっきりと口にする。  話をしたい。話さなくちゃならないんだ、俺と、お前は。 「……っ、馬鹿だ、先輩ってほんと、昔から頭足りない……っ」 「失礼だぞ相馬!」 「うっさいほんと、馬鹿過ぎて泣けてくる……。そんなんでよく仕事してるなっ」 「お前こそ何してんだよ!? お前だって頭のできは変わんねえだろうが!」 「一緒にしないでよ……」  俯いている相馬に、手を伸ばす。その背中が震えているのは、気の所為ではないだろう。 「こっち向け」 「絶対やだ。だいたい、三日間俺にくれるって言ったのに……!」 「うん」 「土下座すんのも、俺に罪悪感なんか感じるのも、話そうとか犯せとか言うのも、ぜんっぶ先輩らしくない……!」 「知ってる」 「いくら、俺が何したってこっち向かなかったくせに……!」  うん。わかる。自分でも不思議だよ。お前のこと、嫌いだったのに。中学高校のときに仲良くしてたお前のこと、弟のように可愛がっていたお前のこと、思い出したくないくらい嫌いになって、憎んでいたのに。  それなのにどうして、今引き止めてるんだろう。  どうしてとか言いつつ、ほんとはわかってる。その気持ちをくれたのは誰か。きっと相馬もわかってる。だから、身を引いたんだ。 「志岐天音」 「は? な、何」  急に相馬に名前を呼ばれ、志岐は目をぱちくりさせる。 「次会うときは、お前の前で先輩を犯してやるから」  志岐はますます目を丸くするが、しばらくして相馬を挑発するように笑った。 「はっ、お前が椿にボコボコにされるとこ見てやるよ」  自分が言い出した物騒なことだが、志岐に言われると椿も否定したくなる。 「犯されません。ボコボコにはしません」  相変わらず相馬はこちらを向かないが、微かに笑ったような気がした。 「ばいばい」  別れを告げるその声は、先ほど聞いたそれよりも、明るく弾んでいるように聞こえた。  ドアが閉まる音がしたところで、ふわりと頭からタオルケットを掛けられた。志岐が掛けてくれたのだ。 「ほんと風邪引くぞ」  そう言われ、椿は自分の格好を思い出す。  身に着けているものは何もなく、ローションやら体液やらで汚れたままの身体。視線を下ろせば、身体中に散っている鬱血の跡が目に入る。 「風呂、お湯溜めてくる」  志岐は椿に気を使ったのか、浴室に行った。  椿は一人部屋を見渡す。ぐちゃぐちゃになったシーツ。蓋が空いたままのローション。ベッドの下に落ちているゴム。  ああ、微かに中が疼くのは、あの媚薬入りのローションが中に残っているからか。出さねえとな。あいつ奥まで指挿れやがったから、奥まで洗わねえと。媚薬って言っても効果は弱いやつみたいだから、よかった。  ぼんやりと考えながら、シーツを剥がす。  服は、いいか。このまま風呂入るんだし。志岐も気にしないよな。全部洗濯してしまおう。  服もシーツも一緒くたにして、丸める。ローションは捨てに行く。  そんな風に椿が片付けをしていたら、志岐が戻ってきた。 「入ってれば? 身体洗ってるうちに湯も溜まんだろ」 「ああ、うん」 「片付け、俺やっとくから」 「できねえだろお前……」  家事なんかできなくて普段自分に全部やらせるくせに、片付けるなんて言い出す志岐がおかしくて、椿は笑った。だけど志岐は笑わない。  近寄ってきて、遠慮がちに、そっと椿をタオルケットの上から抱きしめた。 「一緒に入ろうか」 「……何言ってんだよ」  志岐から少し離れて、顔を見ながら答えた。志岐はなおも心配そうに尋ねる。 「中、洗える?」 「……大丈夫。さっき、なんだっけ、シャワ浣? やられたし。志岐にもやったことあるしな。わかるから」  椿の肩を掴む志岐の手に、力が入る。 「……椿、何をどこまでやられたの」  答えられない。結果的に、ずっとわだかまりのあった相馬と、話すことができるようになった。しかし、男相手に身体を開いてしまったという事実には変わりない。それを知られたくなかった。本当は。志岐には。 「中……、挿れられたの……?」 「いや……、指で弄られただけ。いやー結構痛いのな、ローションとか使ってもさ。なんだっけ、ちょっと媚薬入り? だったみたいなんだけど、そうじゃなかったらキツかったわー……とか言って……」  深刻に受け取られたくなくてさっきから笑っているのに、やはり志岐は笑ってくれない。  それどころか。 「……なんで志岐が泣くんだよ」 「……っ」 「志岐が泣くことなんかねえの。指挿れられただけだ。それだけ。平気平気」 「……何もさせられなかったわけ、ないだろ」  ……なんでわかる。  相馬のものを繰り返ししゃぶったことを思い出す。喉に吐き出された相馬の精液の味も。  吐き気が込み上げて、思わず口元を手で覆った。その手が、微かに震えている。 「椿……!」  足から力が抜けて、情けなくへたり込んだ。 「志岐、今日は、ありがとな……、けど、帰って……っ、今日は……っ」  こんな姿を見ないでほしい。情けなく震える姿なんか、忘れてほしい。 「ごめん……っ」 「泣くなって、志岐……」  震える椿に触れることを躊躇う志岐が、泣きながら椿の前に座り込む。あとからあとから溢れる涙を見る。 「早く助けに来なくて、ごめん……!」 「そ、なっ、そんなこと、謝んな……っ」  自分が相馬に脅されてこんなことをすれば、万が一バレたとき、志岐が罪悪感を持つことになるかもしれないとは思った。しかし、まさかこんな風に志岐が泣くとは思わなかった。  綺麗な涙だ。  それを見ていたら、自分も素直に泣いてもいいのかもしれないと思った。強がらずに、情けないところを見せてもいいのかもしれない。今日だけは。  今度は椿から、手を伸ばす。 「少し、な。少し、怖かった」  椿は志岐の目元に手を伸ばして涙を掬う。弱いところを見せてもいいと思った途端、椿の目にも涙が浮かんでしまう。 「でもお前のおかげで、相馬との関係、変われたみたいだから……」  こんなことを言っても、詳しい事情を話していない志岐には、何のことかわからないだろう。でも、わからなくてもいいから、志岐がしてくれたことを伝えたくて。 「今回のことは、俺のことに志岐を巻き込んだ。だから、ごめんな。俺の方が、謝らなくちゃなんねえこといっぱいある」  そう言うと、志岐はふるふると首を振る。 「あのとき、俺の首を絞めてるとき」 「ん?」 「あいつ、ずっと俺を羨ましそうに見てた。椿を、『カッコ悪い』って言う前、あいつ『いいな』って言ったんだ」  椿が、聞き取れていなかった言葉。あのとき志岐は顔を上げていたから、わかったのだろう。 「いいなって、椿と今一緒にいる俺に言ったんだ。だから椿の事情に、俺が巻き込まれたんじゃなくて、俺が、椿の近くに、いたからってことで……」 「近くにいたから、巻き込んじまったんだろ……?」  志岐の言いたいことがわからず、尋ねる。しかし志岐はまた頭を振る。 「違う。巻き込まれたんじゃ、なくて。俺が、椿の近くにいたくて、それを選んで……椿の事情に、自分で入ったんだ」  志岐は決して話すことが得意ではない。特にこういう、自分が何を考えているかについては。話せることだけを、いつもぽつりぽつりと言葉にする。だれど今、一生懸命に、椿に伝えようとしてくれている。 「椿の家に泊まりにこないことも、今日引き返してこないことも、選べた。でも、そうしなかった。椿由人に関わることを、俺が選んだんだ。だから、巻き込まれたわけじゃ、ないよ」  椿を安心させるように、志岐は微笑んだ。  涙で煌く瞳は、なんて綺麗なんだろうと思った。 「怖かったね」  椿の頭を撫でて、髪を梳き始めた志岐に、どちらが年上かわからないなと、笑った。  ◇  それから数日後、椿は愛梨に会った。そこで驚いたのは、なんと少し前に相馬が愛梨のところにも姿を現したということだった。高校のときのことを、謝られたらしい。愛梨はそれを、許したと言った。 「椿とまた会えるようになったって、嬉しそうにしてたよ。危うい雰囲気がなくなってた。あの子は変わったんだね。椿が変えたんだね」  愛梨はそう言ったが、相馬を変えたのはきっと、自分じゃなくて志岐だと椿は思った。  次に相馬が会いに来るのが、いつになるのかはわからない。けれど今度会ったら、詳しく聞いてみよう。今何してるのか、これまで何をしていたのか。求められたら全力で抵抗して、喧嘩して、それでも別れるときには笑ってられたらいいな。  ──守りたい。守らなくてはと思っていた志岐が、思っていたよりもずっと強い奴だったことを知った。  そう。志岐は強かったんだ、本当は。  守りたいと一方的に思うことは、相手を想っているようで、侮っていることと同じだった。志岐と対等でいたいと思ったのは椿の方だったのに、志岐の弱い部分だけを見て、いつの間にか対等じゃなくなっていた。  これからはもっと志岐にも相談しよう。  志岐はどんな仕事がしたい?  俺はこんな仕事をしてほしい。  こんな仕事が来てるよ。  話し合うことはいっぱいあるんだ。  一緒に歩んで行けるように。支えあって行けるように。  第三章  終  

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