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第四章 四
ずっと向こうまで続く大通りがオレンジ色の光に輝いているのを見て、志岐は言葉もなく瞳をきらきらさせた。
事務所の前の並木道のイルミネーションは、それこそ慎ましやかなものだ。今目の前に続く光の道は、それとは比べ物にならない華やかさがある。テレビでも特集されているのを見たから、やはり混雑していた。
志岐とはぐれないように、手をつないだまま歩く。きらきらさせた瞳を、きょろきょろと落ち着きなく動かすから、手をつないでいないとすぐに迷子になってしまいそうだ。
「楽しい?」
そう聞くと、志岐は珍しく素直に大きく頷いた。
喋らないのは相変わらずだったが、志岐が楽しいならそれでいいやと、椿は小さく微笑んだ。
つないでいる手が温かい。外は冷たいのに、触れ合っている掌が熱い。志岐の手は冷たかったから、この熱さは自分のものなのかなと思う。
志岐といると、熱い。
イルミネーションから意識が逸れていた椿に気がついた志岐が、見てみろと言うように手をぎゅっと握った。椿が顔を上げると、志岐は満足気に笑った。
「何? なんかあった?」
志岐の視線の先には、大きなクリスマスツリーがあった。
そこは際立って人が多かったのだが、志岐が幹に向かって近づいていくから、椿も仕方なく人を掻き分けて進んだ。
「こういうのって近くで見るより遠くから見た方がよく見えるんじゃないか?」
こんな木の真下からじゃ見えにくいだろうに。
しかし志岐は、食い入るように木を飾る色とりどりの光を見つめていた。またぎゅっと手に力が込められる。こちらを向かないから、これは無意識なのかもしれない。
ココアに母親の思い出があったように、もしかしたらクリスマスにも、何か思い出があるのかもしれない。
ふと、急に、志岐の声が聞きたくなった。話をしたくなった。今なら、上手く話せる気がする。
話したい、な。
「志岐」
木を見上げていた志岐が、椿を見る。何?と言いたげに首を傾げた。
だからなんで喋らないかな。
「話がしたい」
つないでいる志岐の手に、きゅっと力が入った。そして、こくん、と頷く。
どこか話せる場所はないだろうか。食事できるところに入るか?
「何か食べたいものあるか? 食事しながら話さない?」
志岐はそれに首を振る。
え、駄目? 今日の志岐が考えてることはさっぱりわからない。椿がどうしようかと考えていると、志岐が手を引いた。
一本脇道に入る。しばらく進むと、小さな公園に辿り着いた。滑り台と、小さなブランコと、砂場。それしかなかった。住宅街にひっそりとあって、周囲の風景に溶け込んでいた。表通りの喧噪は届かず、そこは静かに時間が過ぎているようだった。
「え、ここで話すんの? よくこんな小さな公園知ってたな。志岐この辺り詳しいのか?」
「ああ、前にこの近くのホテルで撮影あったからさ」
普通に答えられて呆気にとられる。マフラーを首まで下げて、久しぶりに顔を見る。椿がじっと見つめていたからか、志岐が顔を上げる。
「何?」
「いや、何ってお前、喋んなかったから……」
「ん。周りに人いたじゃん」
「へ?」
「喋んなかったら、俺が男だってわかんなくない? そういう格好してきたつもりだけど」
確かに、女の子にも見える。
改めて志岐を上から下まで見てみてそう思う。わざとだったのか。でも、なぜだろう。
「男同士だったら、外で手もつなげないじゃん」
「は?」
志岐が一歩近づく。距離はゼロになる。そして、すっと、椿の腰に手を回した。
「志、岐?」
「デートでしょって」
志岐は背伸びをして、唇が触れそうなくらい近くに顔を寄せる。化粧なんかしていないのに唇は艶やかで、綺麗だと思った。その綺麗な唇が、ますます近くに迫る。
志岐が目を瞑った。
あ、睫毛長い。
椿は頭の片隅でそんなことを思いつつ、志岐から目が逸らせない。
そして唇が触れそうになった瞬間──
「ばーか。雰囲気に飲まれんな」
「だ……っ」
突然デコピンをされて思わず後ろによろけた。
「デートとか……変なこと言うからだ」
いたずらっ子みたいな表情をする志岐に、からかわれたのだとわかる。へへっと笑って、志岐は椿の額に冷たい手を伸ばした。
「痛かった?」
「うう、俺の純情を弄んだな……」
「先にデートとか言って人のこと引っ掻き回したのは椿だかんな」
引っ掻き回した? 何を?
「あ、でも俺今日椿に痛いことばっかしてんな。ごめん」
「謝るくらいならするなよ」
「はは、悪い悪い」
自分がデートと言ったくらいで、志岐の……心が引っ掻き回された?
どきん、と椿は胸が強く鼓動を打つのを感じた。
楽しかったな、と笑う志岐を見つめる。
見つめていると、椿はどんどん顔が熱くなっていくのを感じた。真冬の、芯から凍るような冷たい空気を肌に感じていたのに、心の中からはじわりじわりと熱くなっていく。
触れた手は冷たかったのに、志岐の頬も心なしか赤く見えて、思わず口に出してしまう。
「志岐、顔赤い」
「え」
椿の言葉に、驚いて目を見開く志岐。見る見る顔が紅潮していく。
「な、んだよっ、お前のが、赤いし! やめよ! 俺ももうからかわないからお前も変なこと言うな! 話したいって言ったのお前だろ!? さっさと本題喋れ!」
椿に背を向けて、志岐は顔を隠す。
からかったつもりはないんだけど。……本題。うん。話したいことがあるんだ。
椿は小さい背中を見つめる。
そこに何か背負っている。椿には見えない、何か。見せてはくれないそれが、志岐を苦しめていることはわかる。
罰とは何だ? 罰……志岐は何か、自分が罪を犯したと思っているのか? だからこその、罰?
「志岐、ほんとは俺、志岐に罰だなんて思ってほしくないよ」
志岐の肩が、ぴくりと震えた。
「仕事を、罰だなんて思ってほしくない、ほんとは。この前言ったのは、そう言えば志岐がやってくれると思ったから」
「……だから、やるって。椿がそう言うなら、罰なんて思わない。……そうだな。椿が折角持ってきてくれた仕事を、罰だなんて言うのは気分悪かったよな。ごめん」
違う。そうじゃない。そういう上辺だけの言葉がほしいんじゃないんだ。謝ってほしいわけじゃないんだ。
振り返った志岐の笑顔が、一瞬目に入る。すぐにまた、椿に背を向けてしまう。
そんな、悲しそうな笑顔が見たいんじゃないんだ。さっきみたいなきらきらした瞳を、そんな瞳を、志岐が仕事でも見せてくれたらって、思ったんだ。
「椿、帰ろ。なんか適当に飯食って帰ろ。明日何時だっけ」
「帰らない」
「な、何……っ」
後ろから覆いかぶさるように、志岐に腕を回した。
「も、もうふざけるなって、言っただろ……っ」
「お前って、動揺してるときほど本当のことうっかり喋るよな」
「は!?」
椿は志岐の肩に顎をのせる。
「ほん、と、何……、息、息がっ」
「あ、キモい?」
「や、そ、そうじゃなくてっ」
「じゃあいいじゃん」
「何、何も良くない! 椿、何なの、何考えてんだよ、ほんと……っ」
人に触れられることに、志岐は慣れているはずだ。桜田が志岐をこんな風に後ろから腕を回して抱きしめているところだって、椿は何度か見たことがある。それなのに、志岐は身体を目一杯緊張させて、言葉とは裏腹に、椿の腕を振りほどいたりはできないようだった。
「なあさっきの話、ちゃんと思ってること言え。話せないことはいい。過去のことはいいから、志岐が今考えてることは、隠さないで言えよ」
「……っ」
息も止めているんじゃないか思うほど、志岐は身体を固くする。
やり過ぎたかと不安になり、椿まで緊張してくる。でも、志岐が何か言ってくれないと離すタイミングも掴めない。
「歌が」
志岐が、絞り出すように声を出した。ゆっくりと手を動かし、椿の腕にそっと触れた。
「ほんとは、演技は、よくて。下手だけど、頑張れる。椿が、俺にできるって持ってきた仕事だから、できるって信じて、やってみる」
つっかえながら、言葉を探している。
「でも歌は、歌う役は、喜んでやっちゃ、駄目だから……」
「……どうして?」
志岐が言葉を飲み込まないように、遮ることにはならないように気をつけて、椿も言葉を探す。
触れている志岐の身体が、震えているのがわかった。微かに息が、上がっている。
白い息が、漏れる。
「俺は、歌で人を、不幸にしたから」
──あの子が本当にAmeではないのか。
椿の頭に社長の言葉がふと蘇った。相馬のことがあったから有耶無耶になっていたが、社長は志岐がAmeかもしれない、それを確認するように椿に言っていた。
歌で、不幸にした? 志岐は、歌を歌っていた?
「志岐……」
お前は、Ameなのか?
「椿の好きな、Ameの歌声は、人を幸せにしていたんだろう? そんな風に、俺もなりたかった。でもなれなかった」
椿の腕に触れている手が、寒さとは違うもので、震えているようだった。
なあ、それはお前がAmeではないってことでいいのか? この震えは、Ameのようになりたくて、なれなかった悲しみのためなのか?
俺は何を言えば良いんだろう。何が言えるのだろう。
「志岐、歌ってたのか?」
ようやく出た言葉は、そんな簡単な言葉だった。色々考えても、また志岐を傷つけるだけだと思ったから。自分が思っていることを、そのまま簡単な言葉で伝えた方が良いだろうと椿は思ったのだ。
「歌ってた……っていうか……歌いたかったのかな、ずっと。俺は歌ってない。歌えなかったんだ」
「そっか……」
要領を得ない志岐の答えに、椿は曖昧な答えを返すことしかできない。
しかし志岐は、椿のそんな間の抜けた返事を聞いて、身体の力を抜いた。くすくすと笑い出す。
「何やってんだろ、俺たち。はたから見たら外でイチャつくバカップルだな」
「もういいじゃん。イヴなんだし」
椿も笑いながら、いい加減恥ずかしくなって志岐から身体を離した。するりと腕を抜く瞬間に、名残惜しそうに志岐の手に力がこもったのは、きっと気の所為だろうと思う。
「椿、星が」
「ん?」
志岐が急に上を向くから、椿も釣られて空を仰いだ。
星がいくつも綺麗に瞬いていた。雪でも振りそうな気温。しかし空は雲ひとつなく、澄んだ空気が星の光を届けていた。
それを見上げる志岐の瞳もまた、澄んでいた。無邪気にイルミネーションの光を見て喜ぶのとは違う、澄み切って、吸い込まれそうな瞳。
椿はそれに見惚れた。
「椿、俺頑張るね」
星を映していた瞳が、今度は椿を映す。
「もう、歌えないと思ってた。でも、不思議だな。あのとき、自然と歌ってた」
あのとき。椿が自分を見失いそうになっていたとき。自分のために、歌ってくれた。今日のような真冬の空気のように、澄んだ歌声。椿はそれを思い出した。
「椿のことを思ったら、歌えたよ」
あまりに柔らかく笑うから、もう一度抱きしめたくなった。
そんな自分に、戸惑った。
儚くて、消えてしまいそうで。留めておきたくて。そばにいてほしくて。そばにいてやりたくて。
いくつもの感情が溢れそうになって、戸惑って抑えこむように、椿は目を瞑った。
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