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第四章 九
◇
「えーっと、どうしたんですか?」
椿と志岐の重苦しい空気に、三上は家に来て早々に気が付いた。初めは気にしないようにしてくれていたようだが、だんだん息が詰まるように感じたのだろう。志岐がトイレ、と言って部屋を出て行った隙に、こそっと椿に尋ねてきた。
読み合わせをしているときには、椿は邪魔にならないようキッチンにいたり少し離れて本を読んだりしていたのだが、三上に促されてリビングのソファ、三上の隣に腰を下ろした。
「ちょっと喧嘩して……いや、俺が全面的に悪いんですけど……」
「そうなんですか……」
三上は少し考えるように顎に手をやったあと、まっすぐ椿を見て口にした。
「どっちが悪いかわかってるなら、さっさと謝って仲直りしてください。厳しいこと言って申し訳ないですけど、志岐さん、気持ちの揺れが演技に出てるじゃないですか」
三上の言う通り、今日も昨日と同じように読み合わせをしていたのだが、だいぶ良くなってきていた演技が、今日はまた初期の頃のような棒読みに戻っていた。それに、集中力も散漫になっている。
本人も自覚しているのだろう。トイレと言って出て行ったが、なかなか帰って来ない。外で頭を冷やしているのだと思う。
「共演者に何言われても動じてなかったのに。椿さんは志岐さんにとってきっと大きな存在なんだろうから」
「そうでもないけどな……」
「そういう謙遜いりません。とにかく、明日の撮影には影響がないようにちゃんとしてください」
「はい……」
厳しいが、その通りだ。今日中にどうにかしないと。けれど自分自身なぜ撮影を見ていられなかったのかわからないのに、志岐にどう言ったら良いのかと、椿は途方にくれる。
「……何が原因なんですか?」
明らかに頼りない空気を漂わせていた椿に不安になったのか、三上がしょうがないなと溜息を吐きながら訊ねた。
相談したいが、今の志岐の共演者である上に、自分より四つも年下の男にこんな相談をするのはどうかとも思い、迷う。
「撮影に影響が出たら許しません」
怖い。
三上のあまりの迫力に焦る。仕事に掛ける思いの強さの所為か、迫力がある。
まだ迷っていたが、今は撮影が上手くいくことだけを考えなくてはならないと思い、椿は三上に話を聞いてもらう決心をした。
「三上さんと志岐の……、今日の撮影を見ていられなくて……」
「え? どういうことですか?」
「俺、今まで志岐の撮影全部見てきたんです。あ、今までって言っても、志岐のマネージャーになってから半年くらいなんですけど。小さい事務所ですし、俺は志岐以外担当していないし、志岐の仕事は全部見届けたくて」
「AVの仕事も?」
三上は驚く。
「はい……。なのに、今日は見ていたらなんだか変な気分になって……」
「変な気分?」
「なんか、居た堪れないっていうか、見ていたくないっていうか……こう、胸が締めつけられるような……」
胸の辺りのシャツをギュッと握りながら、今日現れた症状を話す。さすがに、自分が男に犯されかけたことが原因かもしれないとは言うつもりはない。
「胸が締めつけられるって……」
「それで、志岐が俺が男同士のそういうのに嫌悪感が湧いたからじゃないかって言って……俺はそんなことないって言ったんですけど」
「はあ? 嫌悪感? 今までゲイのAV見てた人が?」
驚いて素になっているらしい。三上は切れ長の瞳を軽く見開いたまま、身を乗り出してきた。
「あんたらってほんと面白いですね。あ、すいません」
「いいです、こんな話しちゃって、あんたで十分です」
三上の反応を見ていると、まるで自分のこの症状がなんなのかわかっているようだ。
この話だけで何がわかると言うんだと、椿は不思議だった。
「椿さんがどういう人かよくわかんないから微妙ですけど」
三上は考えながら言葉にしているようだった。
「たとえばですよ? 自分の兄弟とかがAV出てたら、それ見れます?」
「は!? いや!? そりゃちょっと、厳しいな……」
椿には弟がいるが、その弟がAVに出ていて撮影を見ろと言われたら、それは見ていられないだろうと思う。
「え? それと同じってことですか? 志岐と仲良くなって家族みたいな存在になっているからって?」
家族……か? いくら美人だからと言って、家族に見惚れたりするか? 一緒にいてそわそわしたりとか、嬉しくなったりとか、抱きしめたくなったりとか、するか?
椿は最近志岐といて生まれた感情を思い浮かべる。
「違うみたいですね」
三上は椿の納得していないような表情を見てそう言った。
「じゃあ、あとは一つです。あなた志岐さんに惚れてるんじゃないですか?」
「へ?」
「俺は同性愛とかよくわからないからなんとも言えないですけど。平気だったのに平気じゃなくなったって、あなたの志岐さんのことを見る目が変わったからじゃないんですか?」
三上は真剣な顔をしている。決して冗談で言っているわけではないようだ。
椿は今言われたことを反芻する。
志岐に、惚れてる……?
惚れてるって、好きってこと?
いや、元々好きだけど……生意気だけど可愛いところもあって……でもあいつは男で、俺も男で……
「おおお俺ノーマルだけど!?」
そうだよ! 俺ノーマルじゃん!
愛梨とも付き合っていたんだし、と椿は自分に言い訳でもするかのように言い聞かせる。
「だから微妙って言ったんです。昨日もそう言ってましたし」
「そうですそうです!」
「まあ、それは俺が口挟む問題じゃないですけど。結構聞きますよ? 俺たちの周りでも、どっちでもいけるって人」
「でも……」
好きって、なんだっけ?
一緒にいたくて、守りたくて。胸が苦しくなったり、切なくなったりして。それでもやっぱり、一緒にいたくて。
あの、胸の痛みが。
「そんな顔して……。笑い飛ばせない時点で、一つの答えなんじゃないですか?」
三上が厄介なことに首を突っ込んだな、というような顔をして一つ溜息を吐く。
しかし椿の様子を伺う表情には、労るような色も見えた。
ああ、志岐。
俺は──。
「あれ? 三上さんは?」
「帰った」
「え、もしかして俺が集中してなかったからかな……怒ってた?」
「いや……つーか、どこ行ってたんだよ」
「頭冷やそうと思って、コンビニまで」
「言ってけっての」
「悪かったよ」
あれから三上は「言い過ぎました」と言って帰って行った。なかなか戻らなかった志岐は、程なくして外から帰ってきた。
椿がソファから立ち上がる前に、志岐は踵を返す。
「じゃ、俺も帰ろうかな」
「泊まらないのか?」
そのために一度志岐の家に着替えを取りに寄ってから帰ってきたはずだった。
「……一緒にいない方がいいだろ」
志岐は振り返り、口角を上げ皮肉るように笑った。
椿はそれに上手く言い返すことができない。
……なあ、本当に、一緒にいない方がいいかもしれないんだ。一緒にいたらいずれ、いやすでに、か。志岐に悪い影響を及ぼしている。
そう思うと、何も言うことができない。
志岐は着ていたコートを脱ぐことなく、そのまま玄関に向かう。細い肩が活気なく落ちているように見える。
椿は追いすがるように玄関までついていく。
「志岐、ごめん」
「……謝ることないだろ。最初に言ったじゃん。無理して見ることないって」
「頼むから、もうちょいここにいて」
考えをまとめて話せるようにするから。このままじゃ、明日の撮影が上手くいくはずがない。それだけは、駄目だ。
「椿?」
座って靴を履いていた志岐が、椿の、自分でも出すつもりなんてなかった弱々しい声に驚いて振り返った。
靴を手放し、椿の前まで戻ってくる。
「なんなの、それ。そういうのずるい。今回酷いことしたの椿だろ。それなのにそういうの、ずるい」
「うん……」
その場によろよろと座って俯く椿の隣に、志岐も腰を降ろした。
志岐は椿に考える時間を与えるように、ただ黙って隣にいた。
志岐への気持ちは、よくわからない。この気持ちが、今まで椿が知っていると思っていたような、かつて愛梨に向けていたような、“恋”と呼ばれるものなのかは。だから椿はそれを今、志岐に言うつもりはなかった。
いや、はっきりとそうとわかったとしても、今までの関係を壊すことを自分には言うことができないと、椿は思う。
志岐のマネージャーでいたいから。それがきっと、志岐が一番笑ってくれる自分の立場だから。
「俺な、志岐のこと、すごく大事なんだ」
「え……」
椿は志岐を見て笑った。志岐は大きな瞳をこれでもかというほど大きく見開いている。
「これまでも、ずっと大事だったけど、それはきっと、マネージャーとしてとか、友人として、とかだったと思う」
「今は、違うの……?」
驚き、尋ねてくる志岐が椿には幼く見えた。その頬に触れる。志岐は一瞬身構えるように身体をかたくしたが、椿の手を避けようとはしなかった。
温かい頬。
胸が、ときん、と高鳴る。
ああ、わかってしまった。この気持ちの正体が。
きっと、イブに“デート”という言葉を使ったのは、無意識に漏れ出た気持ちだったんだ。
気がつかなかったのは、近くに居すぎて、ドキドキとするような感覚が、なかったから。高鳴ったとしても、志岐に恋なんかするはずがないと、思い込んでいたから。
「今は、今はな……」
なんでこうなってしまったんだろう。なんで志岐を友人として好きでいられなくなってしまっているのだろう。
Ameと顔が似ているから? 可愛いから? 男じゃないみたいだから? 助けてくれたから? 守りたいって気持ちがいつの間にか変わってた?
どれも違う。
「何? 椿……?」
志岐の頬に触れたままの椿の手に、志岐が手を重ねる。優しく包み込んで、椿の言葉を促すように。
なぜだかわからない。なぜ惹かれたのか。きっとそれは、はっきりと理由がわかるものじゃない。どんな理由を探したって、どれも当てはまるようで、どれも違うようにも感じる。
ただ確かだと言えることは、こうやって手を重ねてくれる志岐を、愛しいと思うこと。
「家族みたい、だから」
「え……?」
違うよ。家族みたいなんかじゃない。家族に持つような、温かい気持ちより、もっと熱いもの。でもそれは、志岐にぶつけちゃいけない。
だから────
「志岐のことを、いつのまにか、家族みたいに感じるようになってて……だから、見ていられなくなったんだって、わかった」
椿の手に重ねた志岐の手が、ぎゅっと握ってくる。
「家族みたいに、大事で、近くにいたから。だから志岐が三上とそういうことするのを見るのが、辛くなったんだと思う」
「家族……」
椿の言葉を繰り返す志岐の顔が見れず、俯く。
何が家族だ。そんな綺麗な気持ちじゃないじゃないか。結局、嫉妬だろ? あの胸の痛みは。
志岐は一生懸命に仕事に向き合っているのに自分はなんなのだと、恥ずかしくて、悔しくて、椿は志岐の顔を見ることができなかった。
「ほんと?」
頬に触れたままの手に濡れた感触がして、椿は思わず顔を上げた。
「嬉しい……」
どうして。どうしてそんな風に嬉しがる? 俺の言うことひとつひとつに、なんでそんなに。
涙を流しながら微笑む志岐が、あまりに綺麗で。
「わっ、え、何、椿!?」
自覚したら、この前は抑えた衝動を、抑えられなかった。
両手を伸ばして、椿は志岐を抱き寄せる。
「ごめん、ごめんな」
「なんで謝んの、椿……?」
「ちゃんと、マネージャーできなくて、ごめん」
嘘をついてごめん。好きになんかなってごめん。ちゃんとする。もうこの気持ちで志岐の仕事の邪魔をするようなこと、ないようにするから。
「嬉しいよ、椿……俺こそ、ごめん。マネージャーじゃなくて、友達じゃなくて、家族って言ってもらえて、こんなに嬉しくなってごめん」
抱きしめた志岐が、目に涙をいっぱいに溜めた顔を、上げる。
「椿は俺に、いろんなものをくれるね……っ」
志岐は何を、とは言わなかった。
椿は泣きたくなった。こんな風に、喜ばせておいて、それが偽りの気持ちだなんて。
なぜ志岐が、「家族」と言った自分の言葉を涙を流すほど喜んだのか、椿にはわからなかった。わかるはずもなかった。
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