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第四章 十
◇
それからちょうど一週間後、撮影最終日となった。ラストシーンは、雨を降らせての撮影となる。浜辺での撮影で、生憎の曇り空であるが、このシーンにはぴったりの天気である。
砂浜に降り立った志岐は、潮風に身体を震わせた。二月のただでさえ気温が低い中で吹きつける風は、肌に痛みを感じさせた。
椿はそんな志岐に上着を着せ、隣に立った。
上着を着せるときに白いうなじが目に入り、思わず目を逸らした。
曇り空を映す海の色は暗い灰色で、まるで自分の心のようだと思った。
この一週間、これまでと同じように志岐の撮影を見ていた。慣れれば、ラブシーンも見ることができた。なんてことない顔をしようと心掛けることが必要で、気を抜けば動揺が顔に表れてしまうけれど。
三上はあれから、何も言わない。お節介な人間ではない。撮影に影響がなければ、あえて椿と話そうとすることはなかった。
志岐とは、積極的に話をしているようだった。その影響もあって、他の共演者とも、少し雑談をするようになった。表情はまだ固いが、時折楽しそうに笑う声が聞こえて、椿の心を和ませた。
「寒いな」
喋ると椿の口から白い息が漏れた。
志岐はダウンのファスナーを顎まで上げ、口元まで埋まっている。
「これで撮影も終わりか」
「うん」
これまでの撮影を頭の中で振り返っているのか、志岐は海を見つめながらどこか遠い目をしていた。
「このさ、サキって役……」
志岐がぽつりと言った。
「俺にね、ちょっと似てるんだ」
きっと顔の話ではないのだろう。
この『サキ』という役は、歌に関しては天才的な才能を見せるのだが、どこか感情の変化が乏しい少年だった。それが、三上演じる主人公の「雅人」に出会い、変わっていく。歌に対する姿勢も、人との関わり方も。
それが、自分と似ているというのだろうか。
「歌から逃げたのに、『雅人』に会ってまた向き合うことができた。また歌えた」
また、歌えた。
志岐がオーディション前に言っていたことを思い出す。椿のことを想ったら歌えたと。
「俺にとっての『雅人』は、椿だよ」
志岐は屈託なく笑った。
「椿を想って、歌うよ」
迷いのない声だった。
さっと周りを見渡した志岐は、誰も見ていないことを確認して、椿の手を取る。
いつかのように、椿の指先にキスを落とした。
それは一瞬のことで、あまりにも微かに触れるから、椿には志岐の唇の熱も感じることができなかった。
顔を上げた志岐は、椿が何か言うのを待つことはなく、他の共演者のもとへ走って行ってしまった。
今日は、いいかな。
今日で最初で最後にするから。マネージャーとしてではなく、一人の、志岐を好きになってしまった男として、志岐が歌う姿を見ていてもいいかな。
椿は幻のようにも感じたキスが再び確かに落とされた指を、強く握りしめる。
今日で、短い恋を終わりにする。頭を切り替えて、また志岐が生き生きとできるような仕事を持ってくることができるマネージャーになる。
ずっと志岐と一緒にいたいから。必要とされていたいから。笑っていてほしいから。
撮影は順調に進み、ラストシーンが近づいてくる。
特別、飛び抜けて演技が上手くなったとはいえない。しかし、“サキ”と自分を重ねている所為か、志岐の演技は見ている人に演技と感じさせないリアリティがあった。
「サキ!」
志岐が振り返る。雨の中追いかけてきた三上に、志岐は微笑みかける。儚く、柔らかく。
「雅人……雅人にね、聴いてほしい。これからも俺は歌っていくから。雅人がそばにいてくれたら、ずっと歌っていけると思うから」
監督がスタッフに合図し、雨が弱くなる。
「サキの歌が、俺たちを出会わせてくれた」
「うん……初めて俺は、歌えることの喜びを感じたよ。ううん。昔は、持ってたけど、なくしてしまった気持ちだった。それを、雅人がくれたよ」
雨が、止む。
志岐がすうっと息を吸い込んだ。
それは、静かな声だった。
しかし、海辺の冷たく強い風に負けず、凛としてまっすぐに、椿の耳に届く。
海を見据えて歌う後ろ姿。水で濡れた服が張り付く背中は、いつにも増して小柄に見える。しかし、寒いはずなのに、震えることなくしっかりと地に足を付けて立つ姿は、強く美しく見えた。
映画のために書かれたこの曲を、志岐が歌うのをスタジオで聴いた。そのときは静かなバラードという印象を受けた。寄り添うような、静かな優しさを持つ声で、歌っていた。
今目の前で歌われる歌には、静かな優しさにくわえ、感情があると思った。音の終わりにかけて広がりを持つようなビブラートに、志岐の息遣いを感じる。
志岐が海に向けていた身体を、砂浜の方へ向ける。一瞬、三上ではなく椿を見た気がした。
静かなバラードに、熱が篭る。
──俺にとっての『雅人』は、椿だよ。
志岐の手が、胸に伸びる。
椿も、自然と胸を押さえていた。
──椿のことを想ったら、歌えたよ。
志岐が自分に向けてくれる気持ちが温かいものだと、椿はわかっている。今の自分には勿体無いくらいの、綺麗な気持ち。
志岐は椿が友人だと言ったときも、喜んだ。嘘ではない。けれどよく考えて口にした言葉でもない。
そしてこの前口にした、志岐を家族のように思うという偽りの言葉も、志岐はまるで宝物のように受け取って喜んでいた。
椿の何気ない言葉をそうして受け取る無垢な志岐が、可哀想で、愛しくて、守りたくて。
隣に、いたかった。
椿の乱れていた気持ちが、静まっていく。胸は熱くなっていくのに、逆立っていた心は凪ぎ、潤いを持つようだった。
……ああ、志岐の声は。
心に降り注いだ歌が、余韻を残して終わる。
歌唱後、三上が駆け寄って志岐を力強く抱きしめる予定だったのだが、三上は駆け寄ることはせず、ゆっくりと志岐の前に歩みを進めた。それから、そっと志岐の身体に手を回し、抱きしめた。
「サキ……愛してる」
囁くような声に、志岐は顔を上げて、三上に唇を寄せた。
「雅人、俺と出会ってくれて、ありがとう」
出会えて、よかった。
好きだよ、志岐。
俺を想って歌ってくれたというその言葉だけで、もう十分だ。
十分だよ──……。
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