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第四章 十一

 ◇  撮影が終わって志岐を送り届けてから家に帰ってくると、椿の部屋の前、廊下の柵に寄りかかっている人影に気がついた。  時刻はすでに日付を跨ごうとしている。  不審に思いながら近づくと、それはよく見知った人だった。 「久しぶり、椿君」 「桜田!? え、なんで……!? ずっと待ってたんすか!?」 「撮影今日まででしょ? 椿君連絡くれないから、あめに聞いた」 「あ、すんません」 「いいよ。どうせいつもみたいにあめのことで頭がいっぱいになってたんでしょ?」  鍵を開けて桜田を招き入れながら、椿は曖昧に笑う。  今、桜田に会いたくなかった。  桜田には、何もかも伝わってしまうような気がしたから。  椿のことも志岐のことも一番理解している人ではあるが、椿のことを好きだとも言っている人だ。その相手に、この気持ちを知られるわけにはいかないと思ったのだ。  今日、この気持ちに踏ん切りをつけた。しかしせめて、もう少し落ち着いてから会いたかった。 「あれ? 椿君どうした?」  ほら、な。この人なぜかすぐ気がつくんだ。  桜田をソファに座らせてコーヒーを出した。テーブルにカップを置いた手を引こうとしたら、手首を掴まれた。 「……離してください」 「敬語やめたら離してあげる」 「離せ」  手を離されて、気まずい空気が流れる。いつもは、敬語をやめろと言われても椿は少し渋る。それを即答したから。 「椿君もあめもわかりやすいから好き」 「俺はあんたのそういうところが苦手」 「そこで嫌いって言わないところも好き」 「んじゃあ嫌いです」 「ふふ、可愛い」  桜田は椿にも座るように促す。断る理由も思いつかず、椿もソファに腰を降ろした。 「一週間くらい前かな。あめから電話が来たよ、珍しく」  一週間前……。  志岐に「家族」と嘘を吐いたあの日のことだろう。あの日、志岐は泊まっていった。椿が風呂に入っている間にでも電話したのだろう。 「椿君に、家族って言われたって、泣いてた」 「……それ、俺に言う?」 「だって、笑っちゃって。家族とか」  珍しく刺のあるような桜田の言葉に、椿は驚いて顔を上げる。 「何言ってるんだか」 「はっきり言え」  遠回しに言われるのは苦手だ。わかっているのなら、はっきりと言えばいい。桜田に隠しても無駄なことはわかってる。だったらはっきり言ってほしい。  しばらく言葉なく睨み合う。いや、睨んでいるのは椿だけで、桜田の方は相変わらずへらへらしてはいるのだが。  そのへらへらした整った顔が、ふと笑みを消す。 「あめのこと、好きになっちゃった?」 「はい」  今日で終わりにする思いだ。だから今だけは、はっきりと答えたかった。  言い切った椿に、桜田は微笑む。 「でもそれをあめには言わなかった。家族なんて言葉で隠して。まあ、あめのことを思って、だろうね」 「……んな綺麗なもんじゃない。志岐のマネージャーでいたいからっていう、俺の我儘だよ」 「我儘……ね」  桜田は、椿の頭に手を伸ばした。  ……ガキ扱いされてるなと思う。一歳しか違わないんだけど。  撫でられながら、桜田の言葉を待つ。椿から言うことは、もう何もない。 「頑張ったんだね」 「……なんで慰めんだよ。馬鹿にしてたんじゃねえの」 「馬鹿になんかしないよ。俺が笑っちゃったのは、言われたあめの方」 「え?」  頭から、手がゆっくりと降りてくる。さらりと耳の辺りを触れられた。 「まさか家族って言われてあめが喜ぶなんて。椿君より鈍いとは思わなかったよ」 「どういうことですか……?」 「俺が椿君に絡むたびに、あめが嫌な顔するのってなんでだと思う?」  志岐はこの前も、椿が桜田の名前を出すと機嫌を悪くした。しかしそれは、志岐が自分のことを心配してくれているからだと椿は思っている。あれで志岐は優しいから。  いやそれより…… 「桜田さんの信用がないんじゃ?」 「あはは、きっとそれもあるけど」  さわさわと触れていた手が、椿の顔を固定するように首の後ろに回され、止まる。  戸惑いの声は、桜田の口腔内に消えた。それは一瞬のことで、椿はすぐに桜田の肩を押し返した。 「何すんだよ」 「俺と椿君がこういうことするのが嫌なんだろうね。心配とかもあるかもしれないけど、きっと、椿君と同じ意味で」  同じ意味……? 嫉妬……? 「そ、そんなことない!」 「なんで?」 「だってそんな」 「あめは同性愛者だよ。なんで可能性がないと思うの? 俺はずっと感じてた。あめが椿君を見る目は、友人を見る目じゃない。椿君よりずっと先に、椿君を好きになったのはあめの方だ」  何を言ってるんだと、椿は混乱する。 「あめの方が気づいてると思ってた。なのに家族なんて言われて喜んでるんじゃ……俺がもらっちゃう」  再び口づけられるのを、椿は頭の中がいっぱいいっぱいになっていて避けられなかった。深くなる口づけに言葉は奪われ、苦しくて唇を開くと舌が入ってきた。  熱い舌の感触に、ようやく我に返って抵抗するが、桜田が離してくれる様子はない。それどころか、伸し掛かられて身体を倒すしかなかった。  桜田にこんな風に強引に迫られたことは今までなくて、動揺する。  桜田相手に乱暴なことはしたくなかったが、なにせ体格が不利だ、そんなことも言っていられない。  椿は桜田の髪を掴んで引く。片方の手は抑えられていたから、膝を曲げて桜田の股間を蹴りあげた。 「いた……!」  桜田はソファから転げ落ちて、踞って悶絶している。 「なんなんだよ急に!」 「椿君……、ちょ、ちょっと待ってね……、痛い……」 「変なことするからだ!」  しばらくして立ち直った桜田は、椿を恨めしく見た。 「商売道具が使えなくなったら責任取ってね」 「あんたの股間の責任なんて持てません!」  緊張感をなくした椿に、桜田はクスっと笑う。 「椿君とまたキスしちゃった」 「一方的ですけどね!」 「あはは」 「ああもう……」  一体なんなんだと頭を抱えた椿に、桜田はまた触れてくる。ちょこっと肘の辺りを引かれ、椿は力なく「なんですか」と聞く。 「あめは椿君を好きだよ。自覚させてあげようか?」 「は?」 「あめにさ、椿君への気持ちを自覚させるようなことを言おうか?」 「……そんなことしてどうするんだよ」 「えー? 両想いー、めでたしめでたしみたいな?」  どこかふざけるような口調が癇に障る。普段こんな言い方しないくせに。 「さっきも言ったでしょ。はっきり言えって」 「じゃあはっきり言うよ。あめが君を好きだって言ったらどう答えるつもりなの?」 「どうって……」 「君のとこの社長は、確か上崎彩乃の元マネージャーで、旦那さんだよね? だったら社長さんは君たちを認めないわけにはいかないだろう。なら、付き合う?」  付き合う? 志岐と? そもそも、志岐が自分を好きなんてことは、桜田が言っているだけだ。そんな都合のいいことあるわけないと、椿は思う。 「あ、そんなことあるわけないとか思ってる? 俺の洞察力を舐めてもらっちゃあ困るな。あめと椿君に関しては絶対の自信がある」 「そう……ですか」 「さっき気づかせるって言ったけど、多分あめは、自分の気持ちに気がついてると思う。でも気づかないふりをしてるんだ」 「気づかないふり? なんで?」 「さあ」  肝心なところはわからないと言われ、椿は溜息を吐く。 「何にせよ、志岐は俺が家族だって言って喜んでた。ならそれでいいです。志岐に今余計なことを言って振り回すようなことしたくない。志岐は今大事なときなんです」 「大事なとき……まあ、確かにね。この映画が上手くいけば、あめはAVから抜け出そうと思うかもしれない。いや、もう思ってるかもね。電話で話したとき、演技も歌も楽しいって、またやりたいって言ってたから。あれは嘘の言葉じゃなかったと思う」  それを聞いて、椿は思わず桜田の手を取る。あまりに嬉しくて、握った手をぶんぶんと振り回してしまう。  志岐が、AV以外のことをやりたいって言った! 仕事を自分の罰のように思っていた志岐が! またやりたいって! 「志岐の歌、すっごいんです! 演技は……あんまり上手くないかもしれないけど、できることは全部やってたと思うし! これからもっと上手くなると思う! もっといろんなことできるようになる!」  志岐には選べる未来が、本人が思っているよりたくさんある。それを示すんだ。志岐が光の中を歩けるように、自分にはやらなくちゃいけないことがいっぱいある。 「しょうがないなあ、椿君は」  桜田が、いつものように目元を緩めた。椿が握っていた手を握り返しながら、優しく優しく微笑む。 「恋より仕事ってわけね」 「もちろんです」 「うんうん。まあ、椿君らしいかな。じゃあ仕方ないから俺も待つかなあ」 「待つ?」 「うん。あめに自覚がないなら、その間に椿君を貰っちゃおうかと思ったけど、それだとまたあめに影響ありそうだからね。そうしたら椿君に嫌われちゃうし。あめの仕事が落ち着くまで待つかあ」  大袈裟に項垂れて見せる桜田に、思わず笑ってしまう。  結局この人、俺や志岐のことを優先してばかりなんだよなと、椿は切なく思う。  優しいんだ、きっと誰より。 「ありがとうございます。もう一度、キスしてもいいですよ」 「え、ほんと!? 舌入れてもいい?」  尻尾があったら勢いよく振っていたに違いないと思えるくらい、嬉しそうに顔を上げる桜田に、椿はまた笑ってしまった。

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