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第四章 十二

 ◇  映画の公開はそれから二ヶ月後、季節は春になっていた。  椿は志岐への思いに蓋をして、上手くやれていた。志岐との距離を図りつつ、志岐の次の仕事を探して、何ができるのかと模索していた。  映画の方は、単館映画ではあるが、まずまずの評価を得ていた。特に、志岐の歌への注目は大きかった。それと同時に、やはりAmeとそっくりな外見への反響が大きく、特にネットで騒がれ始めた。  一度葉山社長と椿、そして志岐で話し合う場を設けた。志岐に「Ameではないのか」と真正面から問うたのだ。志岐ははっきりと否定した。  それは用意されていたかのような応えで、志岐もいずれ改めて確認されることを予想していたのではないかと思った。  三上とは、舞台挨拶のときに再会した。  たまたまトイレでばったりと会い、あれ以来初めて二人きりになったからか、椿を気遣うように、「あれからどうですか」と尋ねてきた。いろいろ厳しいことを言うのに、こうして気遣いを見せるところがやはりいい奴だと思う。  その三上に、正直に話す。志岐への思いは吹っ切れたと。今後もまた仕事で一緒になることがあったら、志岐を頼みますと。三上は少し複雑そうな顔をしていたが、椿があっけらかんとしているのを見て、笑ってくれた。 「椿ちゃん、志岐の次の仕事どうすんの?」  すっかり春の陽気になった穏やかな午後、デスクで資料と睨み合っている椿に、飯塚がちょっかいを出してきた。担当していたアイドル志望の女の子が先日辞めてしまい暇なのだろう。ちょいちょいと足を伸ばしてきて、椿の座っている椅子を揺り動かしてくる。 「ああもう! なんですか!」 「だからー、志岐の次の仕事どうすんのって」 「それをこうして悩んでるんじゃないですか」 「志岐はなんて言ってんの?」 「俺に任せるって」 「すっかり信頼関係が構築されてますなあ」 「なんで茶化すんすか」 「茶化してねえよ。あの志岐がAVをやりたがらなくなるなんて、椿の力だろ」  そうなのだ。  志岐はAVをやりたいと言わなくなった。それどころか、初めて桜田とのものも断った。  それには社長も目を輝かせて喜んでいた。事務所の収入的には問題ありなのだが、社長は志岐の仕事への姿勢をずっと心配していたから。だから、AV以外のことに目を向け始めた志岐を、本当に嬉しそうに見ている。  志岐もそれを感じているのだろう。事務所に来ると照れくさそうにしている姿をよく見る。 「一度ゆっくり話してみたらいいんじゃね? 今の志岐なら、よく聞いたら何かやりたいことも言えそうな気いするけど」 「ゆっくり……そうですよねー」  実はここ最近、映画の宣伝やインタビューなんかで忙しくしていて、あまりゆっくりと志岐と話せていなかった。 「映画の宣伝もちょい一区切り着いたんだろ? また“デート”してくれば?」 「げほっ」 「何むせてんだ、椿」  飯塚は他意なく言ったのだろうが、椿にとっては禁句のような言葉だ。一息吐いて落ち着いてから、「考えときます」とやっと返事をした。 「最近ますますお前に懐いてるもんな、志岐」 「え? そうですか?」 「わかんねえの? お前のことずっと見てるよ。それこそ一挙手一投足見逃さないようにするみたいにさ」  そんなに凝視されてるかと驚く。自分の方が志岐を凝視しているような気もするのだが……。 「ありゃお前に相当入れ込んでるね。椿の全部を目に焼き付けてるみたいだったな」  飯塚の物言いはいちいち椿の心臓を縮み上がらせる。  自分も気をつけよう、と椿は肝に銘じる。思いを断ち切ったとは言え、まだふと気が付くと志岐を邪な目で見てしまっているような気がするから。  椿は自転車での帰り道、志岐の家に寄ってみることにした。だいぶ日も伸びてきて、空はまだ明るい。気温は夕方になるとまだ冷えるのだが。  志岐が住んでいるアパートの前には桜の木がある。すでに満開になっていて、椿は志岐の部屋を訪ねる前に少しの間一人で桜を見上げて花見をした。  引きこもりがちな志岐は、やはり家にいた。突然来た椿に驚いたようだったが、部屋に入れてくれた。  相変わらず、必要最低限のものさえ足りていないように思えるひっそりとした部屋だった。部屋の中央にぽつんと置かれたローテーブルを囲んで、腰を降ろした。 「来るなら前もって連絡しろよ。だいたい、仕事が早く終わったときまで俺ん家来てどうすんだよ。早く家に帰って休めばいいじゃん」 「最近仕事のときしか会ってなかっただろ?」 「そ、それが当たり前じゃん」  ……そうやって顔を赤くされると困るんだけどな。  首を擡げる蓋をした気持ちをどうにか押さえ込み、椿は笑う。 「たまにはいいじゃん」 「いいけどさ。……俺からも椿に話があったし」  志岐からなんて珍しいなと首を傾げる。恐らく仕事の話なんだろうが。志岐なりに何か、やはり考えていたのだろうか。 「映画の撮影が終わってから、ずっと言おうと思ってたんだけど」  撮影が終わってから?   そこまで遡ると、椿は気まずい思いを思い出す。志岐に何か感じさせることをしてしまっていたのだろうか。 「いや、んな深刻そうな顔されても困るんだけど」 「ごめん、何?」 「あの、さ、えっと」  言いにくそうに、志岐は視線を逸らす。  その様子に、まさかまたAVやりたいとか言わないよな? と椿は不安になる。  しかし次に聞こえた志岐の声は、椿が想像していたものとまったく違うことを言葉にした。 「デートしない?」 「は?」  数十秒、椿は言われた言葉の意味が理解できずに固まっていた。 「だから、で、え、と!」  一文字一文字区切って言葉にした志岐は、いつまでも反応しない椿に呆れたのか、溜息を吐いて立ち上がった。 「いいよ、もう。自分はデートとか言って誘ってきたのにさ。俺が言うとそういう反応すんだ」 「ちょちょちょちょっとびっくりしただけで! ああ! イブのときみたいなのな! いいよいいよ! 映画頑張ったもんな! 好きなとこ連れてってやるよ!」  椿が慌てて返事をすると、志岐は笑顔を見せた。 「やった。行きたいとこあるんだ」  珍しいと思った。  椿が食事を作るときにあれが食べたいとかこれが食べたいとか言うことはあるし、あれはしたくないとかこれは嫌だ、とか文句を言うことも多い。しかし、どこに行きたいとか自分のやりたいことに関する希望は、あまり言わないから。 「海行きたい」 「え、海?」  夏ならまだしも、今の時期に? と不思議に思う。   「撮影で行ったとこ」 「あそこ? まわり何もなくないか? せっかくなんだから、遊べるとことか見るものがあるとこの方が良くないか?」  観光地ではあるが、海以外に何もないようなところだ。夏なら海で遊べるかもしれないが、今の時期に行ってもすることもないだろう。 「別に、何もいらない。椿がいれば」  蓋をした気持ちが顔を出しそうになって、椿は何か言おうとした口を噤んだ。  志岐も何も言わず、二人はしばらく見つめ合っていた。  飯塚に言われたことを思い出す。  “椿の全部を目に焼き付けてるみたいだったな”  今も、そうなのだろうか。志岐の強い瞳は、椿をただまっすぐに見つめている。椿の何を、焼き付けようとするのか。 「デートだからな。今度は椿が女みたいな格好しろよ?」  急に軽口を叩いた志岐が空気を緩め、やっと椿も声を出すことができる。 「俺がいくらそういう格好しても、女に見えるには無理があるだろ!」 「あはは」  楽しそうな志岐と、来週末に海に行くことを約束して家に帰った。  今週末でもよかったのだが、志岐が来週末と拘ったのが不思議だった。でも椿にとっても都合がよかった。  来週なら、間に合わせることができると思ったから。

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