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第四章 十三

 ◇ 「雨だ」 「雨だね」  デート当日、見事に雨が降っていた。しかも、寒の戻りといわれ、冬のように気温が低かった。寒がりな志岐には最悪の悪天候だった。  志岐の家まで迎えに行くと、アパートの階段の下で、志岐は傘を差して立っていた。散ってしまった桜の花弁が、志岐の傘に張り付いている。  椿が近づくとすぐに気がついた。 「家の中で待ってたらよかったのに」 「待ちきれなくて」  ……志岐は俺の蓋を開けようとしているんだろうかと、椿は眉を寄せる。 「さっさと車出せ」  ぞんざいな物言いに、気の所為だと思い直した。  助手席に座った志岐がシートベルトを締めるのを確認して、椿は車を走らせた。 「つーか行き先変更しなくていいの? 車の中から海見て終わりにならないか?」 「夕方には止むって」 「んな遅くまで海にいんの!?」  今から行けば昼過ぎには海岸に着くだろう。志岐が一体どういうつもりなのかさっぱりわからなかった。志岐がそれでいいならいいけれど、せっかく映画の仕事をやりきったご褒美でもあるんだから、志岐に楽しんでほしかった。 「海行く前にさ、どっかで食事しよ。そこで時間潰そ」 「雨が止むまでってこと?」 「うん。雨止んだら海見に行こ」 「海に何か思い入れでもあんの? なんで海?」  椿は運転しながら助手席に座る志岐を横目で見る。志岐は折り畳み傘を綺麗に畳みながら、事も無げに言う。 「思い入れっていうか、見てみたいだけ。夕日が沈むところを、椿と」 「……志岐」 「何?」  傘を足元に置いた志岐が顔を上げて椿を見た。  上目遣いになる志岐を見て、椿は鼓動が早くなるのを感じる。  志岐がどういうつもりかわからない。椿にとっては、そういうセリフは恋人とかに言うものなのだけど。 「あ、俺がこういうこと言うのが不思議? 言っとくけど、椿はよく俺にそういうこと言ってるからな、自覚がないだけで。だから仕返し」 「仕返しって」 「なかなか気まずい気持ちになんだろ」  楽しそうに笑う志岐に、まあいいかと思ってしまう。 「今日はデートだからな。こういうこといっぱい言ってやる」  などという気持ちを揺さぶるような不穏な発言は気になったが。  海まで行く道のりに古びたバッティングセンターがあり、志岐は一度もやったことがないからやってみたいと言い出した。確かに志岐がスポーツをやっているようなイメージはなく、やったことがないと言うのも納得した。椿も何度もやったことがあるというわけではないが、運動神経には自信がある。少しいいところを見せられるかなと思い、嬉々として寄り道することに賛成した。  しかし。 「いて! 筋肉痛が!」 「椿上手いけどさあ、色んなとこ痛がってんじゃん。おじいちゃんだなあ」 「筋肉痛! 普段使わない筋肉使っただけ!」 「筋肉痛くるの早過ぎじゃね?」 「若いからです!」  運動不足が祟っているようだ。いいところは見せられたが、その後がかっこ悪かった。隠そうと思うのに志岐はよく見ていて、椿が少し動くたびに顔をしかめるのを見て可笑しそうに笑っていた。  今は海の近くの洋食屋で、遅い昼食を食べていた。もう海は見えている。雨も止んでいて、空も少し明るくなってきた。志岐が見たがっていた夕日は、このまま晴れれば見ることができそうだ。 「うう……、飯食うのに手首動かしても痛い」 「痛めたんじゃないの? 帰ったら湿布貼っとけば?」 「筋肉痛です!」 「手首が?」  志岐はまた可笑しそうに笑った。 「雨止んでよかった」  窓際の席に座り、そこから外の様子を見ていた。  志岐がほっとしたように言うのを聞いて、椿は尋ねる。 「日没まで時間あるけど、どうする?」 「散歩しよ。ぐるぐるそこら辺歩いてよ。それが目的だもん」 「そうだな。話あるし」 「話?」 「うん。これからのこと。ちゃんと志岐が何をやりたいのか聞かせてほしい」  志岐は、ロールキャベツを食べる手を止める。俯きがちになって、小さい声で「うん」とだけ答えた。  そんな志岐の反応に、椿は内心首を傾げる。  志岐の性格上喜んで答えるとは思っていなかったが、そんなに思いつめたような表情をされるとは思わなかったのだ。何も考えていないわけではないだろうし、AVをやりたいとも、今は言わないと思う。だからもう少し明るい表情をすると思ったのだが。 「早く食べろよ」  志岐の顔を見て動きを止めていた椿に、志岐は機嫌が悪そうに言った。 「食べる食べる。志岐そういうのも好きなの?」  話を変えるように、志岐が食べているロールキャベツを指さすと、志岐は頷く。 「いつか椿も作ってよ」 「えー、なんか難しそう」 「俺のためだと思ってさ」 「俺志岐と飯食うようになってから、料理のレパートリーかなり増えた気がする」 「その調子その調子」 「何か上から目線だな」  そんなことを話しながらも箸は進み、デザートにパンケーキまで食べて店を出た。辛党でありながらも甘いものも好きな志岐は、甘すぎるほどに甘いパンケーキに大満足したようだった。  外に出ると、潮風が強く吹きつけ、志岐はぶるりと一度肩を震わせた。 「寒い?」 「平気。でも夕方になったらちょっと寒いかもなあ。そしたら椿の上着貸してね」 「ええー」 「最近ずっと暖かかったじゃん。だから俺薄着なんだもん」  寒がりなくせに薄着するからなあと、椿は苦笑する。こんなこともあろうかと、車の中には一枚余計に上着を用意してある。夕方になったらそれを取りに駐車場に一度戻ればいいだろう。 「じゃあ、とりあえずは手を温めて」 「は?」  当然のように手を差し出され、椿はそれを見て固まる。白く細い志岐の指が、戸惑う椿に不満気に握ったり伸ばされたりする。 「志岐さん? ほら、この前と違ってまだ明るいしね? 今回どっからどう見ても俺ら男同士だしね? しかもほら、あなた最近ちょっと話題だから。どこで誰が見てるかわかんないだろ?」 「俺がホモだって言うのは、俺を知ってる奴は皆当然知ってることだろ。俺は気にしない」 「そういうことじゃないだろって」 「ふーん、外で人のこと抱きしめたりしてきた奴が今更何言うんだか?」 「それ言うなよ」 「言うよ。デートだもん、手え繋いで」  いつもなら「もういいよ」などと言って不貞腐れてすぐ引くのに、今日は志岐が引く様子はない。  店の前であまり騒ぐわけにも行かず、椿は仕方なく覚悟を決めて志岐の手を握った。  俺の中の蓋、絶対開くなよと言い聞かせながら。  時々冗談を交え、他愛のないことを話しながら、海岸沿いを歩く。砂浜に降りられる階段を見つけ、そこから先程の雨を含んで重くしっとりとしている砂の上に降りた。  跳ねるように砂浜に降り立った志岐の髪が、風を受けて舞う。映画を撮り終えてから染めた明るく柔らかい髪色は、志岐によく似合っていた。  椿がそれを言うと、志岐は嬉しそうに笑った。 「椿は染めたりしないの?」 「昔は染めてたよ」 「ヤンキーだった頃?」 「そうそう。金髪とかにして」 「ぷっ、それ絶対似合ってなかっただろ」  悔しいが言い返せない。  相馬にも愛梨にも大いに笑われて、三日で元に戻したのだった。 「まあ椿は黒髪が似合ってるからいいんじゃないの」 「どうも……」 「椿の髪好きだよ」 「もういい! もういい!」  好きだという言葉に過剰に反応してしまう椿をひとしきりからかい、志岐は満足したようだった。  しばらくそうして砂浜を散歩していると、だんだん日が落ちてきた。空はよく晴れていて、午前中の雨が嘘みたいだった。 「志岐、ちょっと車行って上着取ってくる」 「え、じゃあ俺も行く」 「いいよ。すぐ帰ってくるから待ってて」  椿は志岐を残して車に向かう。先程の洋食屋と海との間に駐車場があって、停めてある。  上着とマフラーと、それから小さな紙袋を持った。薄いブルーの紙袋は、志岐に見つからないようにと、後部座席に畳んで置いたこの上着の下に隠していた。  

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