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第四章 十四
志岐は波打ち際に立っていた。
つま先は、波に濡れている。海に落ちていく夕陽を見据えていた。
椿は何となく声をかけられなくて、黙って隣に並んだ。志岐の横顔を見つめる。
椿が帰ってきたことは当然気づいているはずなのに、志岐は何も言わない。
夕陽に照らされる横顔。整ったその顔は、いつもと同じように綺麗で儚い。
「椿」
夕陽ではなく志岐に見惚れていた椿に、やっと志岐がその眼差しを向ける。
綺麗で儚い。しかし、何かを決意したかのような、揺るがない強い瞳。夕陽を受け、静かな強い光を湛えている。
「志岐……?」
志岐が、強さを持つことを知っている。
それなのに、初めての一面を見たかのように、椿の心に一抹の不安が過った。椿の助けなど必要としなくなった志岐が、遠くに行ってしまうような、予感。
「俺は、いらない……?」
つい、その不安が溢れた。
志岐にとっては意味がわからない言葉だろう。椿を見る目が真ん丸く見開かれる。
「そんなわけない!」
叫んだ志岐に、今度は椿が驚く。
「椿がいらないなんてこと、あるわけない。変なこと言うな……っ」
「ごめん。なんか、夕焼け見てたら感傷的な気分になったのかも」
「何それ」
微かに笑った志岐に安心する。
夕陽はほとんど見えなくなろうとしていた。消えていく光を見つめながら、どちらからともなくまた手を繋いだ。
「雨止んでよかった……椿とこうやって、見たかったから」
「そっか」
「うん……」
繋ぐ志岐の手は、冷たい。せっかく持ってきた上着とマフラーを着せたいのに、手を離し難くて、椿は片手に持ったまま立っていた。
「あめ」
「何? 雨降ってないだろ?」
志岐が空を仰ぐ。
「あめ、って、もしかして昔から呼ばれてた?」
ふと聞いてみたくなったのだ。AVの撮影現場で、Ameに似ているからと「あめ」と呼ばれていた志岐が、なぜ嫌がらなかったのか。それはもしかしたら、この仕事をする前から呼ばれていたからじゃないのかと思ったから。
「似てるから、ね」
先日社長と椿に尋ねられたことを思い出したのだろう、志岐が自嘲する。
「この前ここで志岐の歌を聴いて、そう思ったんだ」
「……なんで? 声も似てる?」
「まさか。声は全然違うじゃん」
「じゃあなんで……」
薄暗くなって見えにくくなったのか、志岐は一歩椿に近づいて身体を寄せた。
「志岐の歌は、雨みたいだって思った」
「雨……」
伝えたい。
あのとき、椿を想って歌うと言ってくれた志岐へ、答える言葉を。
「Ameの歌が人を元気づける日の光のようだとしたら、志岐の歌は、人の心を潤す雨のようだと思った。潤して、癒して……優しく、寄り添ってくれる」
雨が、淀んだ空気を洗い流して、澄んだ空気を作り上げるように。
「志岐の歌には、力がある。人を癒やす力が。志岐は歌で人を傷つけたって言ったけど、やっぱり雨のように、時には疎まれることもあったのかもしれないけど、でもきっと同じだけ、いやそれ以上に、人を癒していたと思う。そういう力があると、俺は思ったよ」
驚きに見開かれていた志岐の瞳が、潤んでいく。溢れそうなほどに、綺麗な涙が溜まっていく。
やがて小さな掠れた声で、志岐は「ありがとう」と絞り出した。震える唇は、他にも何か言いたそうに何回か開かれるが、言葉にならなかったのか、声は聞こえてこなかった。
「寒いだろ」
自分が言ったことが少々恥ずかしくなって、椿は誤魔化すように志岐に上着を着せて、ついでに冬から車に置きっぱなしになっていたマフラーもぐるぐると巻き付けた。椿の照れ隠しの乱暴な動作に、志岐は笑う。
笑ったときに細められた瞳から、涙が零れ落ちた。
「それ、どうしたの?」
行くときには持っていなかった紙袋を指さして、志岐は不思議そうな顔をした。
「ああこれ、映画のヒット祝い」
椿が手渡すと、志岐はきょとんとしたまま中身を確認した。
「え……?」
「それな、監督にお願いしてもらってきたんだ」
CDを手に取ったまま、志岐は固まっている。
用意したのは、志岐が映画の中で歌っていた楽曲のCDだった。CD化はしないという話だったのだが、志岐が歌ったものがどうしてもほしいと頼みこんだのだ。
「志岐の歌が、好きだよ」
好きだよ。大好きだ。
志岐の瞳から、あとからあとから、涙が零れる。嗚咽が漏れる。それを椿は黙って聞いていた。
CDを大切そうに握りしめ、背中を丸めてただただ泣く姿。抱きしめたくて、でもそうしたら完全に開いてしまうであろう、志岐への気持ちを押し込めた蓋に怯えて、椿はただ、見つめることしかできなかった。
「椿に会えて、よかった」
志岐が、涙で濡れた顔を上げる。
「よかった……っ」
椿の首元へ顔を埋めた。
「ありがとう……っ、ありがとう、椿」
とうとう椿は志岐を抱きしめた。志岐の温もりが、胸にある。そう思ったら、気持ちを殺すことはできなかった。
志岐も、椿の背中に手を回す。
「ごめんね」
耳元で囁かれた声に、何が、と聞き返そうとした。しかしまっすぐに見返す志岐の瞳にまたあの強い光が見えて、言葉を忘れた。
わずかに体重が預けられ、自然と志岐を支える。
戸惑う間もなく、口づけられた。
この前、この場所で指に落とされたときにはわからなかった、その唇の熱。それを今度は、しっかりと感じる。
椿のものより冷たい、しっとりとした唇。震えているのは、寒さからか、それとも──……
「帰ろ」
身体を離した志岐は、笑った。
「志岐……?」
「帰ろ、椿」
穏やかに微笑み、志岐は椿の手を引く。何を聞いても微笑むだけで、そのキスの意味は、わからなかった。
帰り道、また他愛のない話をした。志岐は、ずっと笑っていた。
◇
その笑顔も、涙も、キスも。
どうして俺は、その意味を確かめなかったんだろう。どうして、言葉を噤んでしまったんだろう──。
志岐天音がAmeであるという記事が週刊誌に載ったのは、それから間もなくのことだった。
志岐天音は、この日を最後に椿の前から姿を消した。
第四章 終
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