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第五章 一

 志岐と海に行った翌朝、椿は酷い筋肉痛に顔をしかめながら起き上がった。  志岐も絶対筋肉痛になっているだろうなと呑気に考えながら、出勤のため身支度をする。コーヒーとトーストという軽い朝食を終えて家を出た。  昨日の寒さが嘘のように、春らしい温かなよく晴れた日だった。昨日の雨で桜はだいぶ散ってしまったが、花がまばらになった桜の木は、最後に綺麗な桜吹雪を披露していた。  椿はその中を自転車で駆け抜ける。志岐に会ったらなんて言おう、と考えながら。  ───志岐とキスをした。  椿はそっと指で唇に触れる。  志岐の唇の感触を覚えている。しっとりとしていて、少し、震えていた。  椿もその手で志岐を抱きしめた。  予感がある。もう、この気持ちに蓋をしたままではいられないという。志岐を愛しいと思う気持ちが、溢れてしまいそうだ。そうしたらマネージャーではいられなくなるかもしれないのに。志岐の心を乱したくないのに。  でも志岐が、志岐から、キスをした。  それは、どういうことだろう。もし自分が気持ちに蓋をしていられなくなったとしても、志岐が受け入れてくれる可能性があるということだろうかと、椿は少し、期待してしまう。  ……馬鹿な。そんな期待するな。だいたい、期待ってなんだ? 志岐とどうなりたいっていうんだ。近くにいたいなら、見守っていたいなら、今のままでもいいじゃないか。  ……触れたい、のか?  自分の考えに驚いて、椿は思わず自転車を急停車させた。  触れたい? 触れたいって? でも昨日、確かに志岐を抱きしめたいと思って──……  椿は頭を振って、湧き上がる甘い考えを振り払った。  これ以上考えると、次に志岐に会うときに目が合わせられなくなりそうだと頭を抱えたくなる。  周囲の不審者を見るような目に気まずさを感じながら、椿は再び自転車を走らせた。  ◇ 「おはようございます」  椿が挨拶をしながら事務所の扉を開けると、社員全員が、社長の机を取り囲んでいた。  椿は志岐のマネージャーになった日のことを思い出した。 「椿!」  飯塚が焦ったように声を上げた。  あの時とは違うとすぐに感じた。あの時、飯塚は笑っていた。一人社員が辞めてしまったという、この事務所にとっては危機的な出来事が起きても笑っていた飯塚が、今は険しい顔をしている。  椿は驚いて駆け寄った。 「どうしたんすか!?」  いつも穏やかな葉山社長も、厳しい顔をしている。一人座っている社長は、肘をついて、考えこむように手を組んで口元を隠している。  皆が見ているのは、一冊の雑誌だった。机に広げられたそれに、椿も目を落とす。  大きな文字で書かれた見出しが目に飛び込んできた。 『歌姫Ameの現在!! AV男優、志岐天音が語る真実とは!?』  椿には書かれている言葉の意味がわからず、その先が読み進められない。 「な……なんですか、これ……」  やっと、絞り出すように言葉にする。  社長は椿の目を見ずに答えた。 「明日、これが発売される。天音が、Ameだと書いてある」  そこで気がつく。この雑誌は、大きなニュースになるような芸能人のスキャンダルがたびたび載る週刊誌だ。根拠のないようなものが載ることも、ある。 「こんな……こんなの、ガセですよ……志岐が、Ame? だってあいつ、違うって言いました!」 「うん。僕も天音を信じたい」  しかし社長は、椿のことを見ない。それが何を示すのか、椿はわかる。 「信じたいって、なんですか……? 志岐が言ったこと疑ってるんですか!?」  瞬間的に頭に血が登った椿は、社長を問い詰めるように机を強く叩く。そんな椿を宥めるように、飯塚が肩に手を置いた。 「落ち着け。とりあえずこの記事全部読め」 「読んだって仕方がねえですよ! こんなの全部嘘なんだから!」 「いいから読め! 出版社に問い合わせた。これは志岐本人にインタビューしたものだと返してきやがった」 「な、何、はあ!?」 「志岐とも連絡がとれない。お前、志岐と最後に連絡とったのはいつだ?」 「昨日、です。昨日、一緒に出かけました」  これが、志岐が、答えたものだと?   もう一度、椿は雑誌に目を落とす。  写真が載っている。志岐の、インタビューに答えているところだろうと思われる写真が。 「読め」  飯塚が繰り返す。若林にも促され、椿は座って記事に目を通した。  ───あなたが本当にあのAmeだったのですか? 『そうです。僕がAmeです。と言っても、僕は顔だけでしたけど。歌は口パクでした』  性別非公開としていたAme。その正体は男。それも声は吹き替えだったというのだ。そして電撃的な引退宣言の後、AV男優としてデビューした。 『ずっとAmeとして演じていたからでしょうか。本名の志岐天音として、さらけだしたかったのかもしれません』  ───結構ハードなものもありますよね。 『はい。あえてやっていたところがあります。刺激がほしかったのかな。気持ち良くて。どんどんそれを追い求めちゃってるところがあります』  志岐天音といえば、現在、人気ボーイズラブコミックを実写映画化した作品への出演で脚光を浴びている。そこで歌も披露しているが、今後はまたAmeのように歌手として活動していくのだろうか。それを尋ねてみた。 『いいえ。歌は好きですけど、AVをやめるつもりはありません。気持ち良くて、やめられないですよ。セックスして金がもらえるんですよ? 結局、歌よりセックスの方が好きなんですよ。よかったらあなたも相手してくれます?』  そう無邪気に笑う彼の笑顔は、確かにあの時日本中を魅了した歌姫、Ameのものだった。 「……なんですか、これ……」  声が震える。  志岐がこんなこと言うはずがないと、椿の心は否定する。 「そうだ。こんなこと信じたくない。けれど、天音と連絡がとれないんだ、椿君」  苦渋に満ちた顔で、社長が言った。 「そしてこれが、事務所の郵便受けに入っていた。多分、直接入れたものだろう」  差し出された封筒を見て、椿はよろよろと立ち上がり、社長の前に立つ。封筒を受け取り、震える手で開いた。中から出てきた一枚の便箋を、広げる。 『今までありがとうございました。この御恩は一生忘れません。最後に迷惑をかけてごめんなさい。もし、これが大きな問題になってしまったら、俺はもう事務所を辞めたと、もう関わりがないと言ってください。さようなら。本当に、ごめんなさい。志岐天音』  綺麗な字ではなかった。志岐の字だと、一目でわかった。  そこから志岐の体温を探すように、椿は一行一行指で辿る。最後に志岐天音という文字に、触れる。  ……昨日、触れた。この指で。志岐に。  椿は弾かれるように顔をあげた。そのまま、便箋と封筒を社長に返し、踵を返す。 「おい! 椿! どこ行くんだ!」 「志岐の家に行ってみます!」  飯塚の呼び止める声を背に、椿は事務所の階段を駆け下りた。

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