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第五章 二

 志岐、志岐。  あんなの冗談だよな? 俺に何も言わずに、どこかに行ったりしないよな? お前これからだもんな? これからいろんなことすんだよな?  演技が楽しいって言った。自分が歌ったCDを、歌を、あんなに大事そうに抱きしめた。  これからだろ? まだまだ、これからだろ?  椿はたくさんの疑問と混乱を心にぶつけながら、自転車で全速力で駆ける。  心臓が、肺が、悲鳴を上げている。けれどかまうものかと、スピードをゆるめることはない。  今志岐に会えれば、なんでもいい。いくら苦しくてもなんでもかまわない。今、志岐に会わなければならない。あれが冗談だとしても、なんでも。  デートしたいと言ったのが、最後の思い出作りなんて、そんなことないよな? 昨日を指定したのが、雑誌の発売に合わせたものだなんてこと、ないよな?  ───あのキスが、別れのキスなんてこと、ないよな?  椿は自転車を乱暴な動作で止め、志岐のアパートの階段を駆け上がる。通い慣れた部屋だ。そこを訪ねれば、引きこもりがちな志岐は絶対顔を出すはずだと、縋るような気持ちでインターホンを鳴らす。  電話に出なかったのは、きっと昨日の疲れから深く眠り込んでいるからだ。それだけだ。絶対。  一回、二回と鳴らすが、応答はない。  ねっとりとした汗が、背中を伝う。それとともに、嫌な想像が頭の中で膨らんでいく。 「志岐! いるんだろ! 開けろ!」  それを振り払うかのように、椿は大声を上げてドアを叩いた。 「志岐! いつまで寝てんだよ! 出てこい! 顔見せろ! 志岐!!」  朝から尋常ではない声をあげる椿に、隣の住人が顔を出す。しかし椿の殺気だった様子に危険を感じたのか、さっとドアを閉じた。椿はそれに構う余裕もなく、ドアを叩き続けた。  数分後、一階に住む大家の中年の男が階段を上がってきた。 「何やってるの? ああ……なんだっけ、あの子の友達だっけ?」  欠伸をしながら、ラフな格好で上がってきたその男に、椿は駆け寄った。何度かすれ違って挨拶を交わしたことがある。 「朝から騒いですんません! 志岐はっ、志岐と、連絡がとれなくて!」 「え? 何も聞いてないの? 昨日引っ越したよ、志岐さん」  大家は驚いて目を丸くする。 「ほんの二週間くらい前に急に引っ越すとか言って。バタバタしてたよ? まあ、荷物はほとんど捨てていったみたいだけど。昨日朝早く鍵を返して出て行ったよ」  元々家具の少なかった志岐の部屋を思い出す。  昨日朝早く……ということは、自分に会ったときにはすでに鍵も返し終わっていたのだと気がつく。だから外で待っていたのだと。 「実家に戻りますって言ってたよ? ほんとに何も聞いてないの?」  椿の呆然とした様子に、大家が気づかうように尋ねてくれる。椿はそれに曖昧に返して、階段を降りた。  自転車を漕ぐ気力もなく、志岐の携帯にひたすら電話をかけながら、自転車を押して事務所まで帰った。  志岐の携帯に電源が入ることは、もうなかった。  翌日、週刊誌が発売された。  志岐の知名度が高くなくても、Ameは老若男女誰でも知っているような歌手だった。おかげで、事務所の電話は鳴り止まなくなった。  情報番組の取材の依頼までくるという始末だった。  葉山社長はそのすべてに、「事実確認中」で通すことに決めた。  Ameはもう引退した歌手であるし、志岐の知名度も高くはない。ほとぼりが冷めるのを待つしかなかった。  椿と社長は、映画関係者に頭を下げて回った。  一週間経っても、志岐とは連絡がとれなかった。 「椿、ちゃんと休んでんのか?」  志岐を探し回り、関係者に謝罪して回り、椿は頭を働かせる時間もなく忙しなく身体を動かしていた。その方が、楽だった。この一週間、ベッドで休んだ記憶がない。体の限界まで動いて泥のように溶けて眠らないと、うなされて飛び起きてしまうから。 「お前が身体壊したらどうしようもないだろ。ちょっと寝てろ」  今日も志岐を探しに事務所を出ようとしたら、飯塚に引き止められた。 「手がかりは何もないんだろ? がむしゃらに探したって見つかるもんじゃない」 「俺は丈夫なだけが取り柄ですから」  そう言って扉に手を掛けるが、珍しく強引に、飯塚が開きかけたドアを抑えて椿を止めた。 「椿、どこを探すって言うんだ」 「……」 「お前Ameのことも志岐のこともよく見てたんだろ。頭使って手がかり探せよ。いなくなる前日に、志岐は何か言ってなかったのか? お前に何も言わなかったのか?」 「そんなこと、わかりきってるでしょう!? 志岐は俺に何も話さなかった! それがこの結果ですよ! そんなのわかってるくせに!」  張り詰めていた何かがぷつりと切れたように、椿は声を張り上げた。  志岐は自分に何も話さなかった。何も、何も……!  その思いが、自責の念が、椿を叫ばせる。 「喚くな、ガキか。置いてかれたからって被害者ぶるんじゃねえよ。その程度の頭しか使えねえんだったら、お前に志岐を任せたのは、社長の間違いだったな」  飯塚が、蔑むような目で椿を見る。しかしその腕は、扉を押さえたまま動かそうとする様子はない。 「ああそうですよ! 表面だけ仲良しこよししてただけの役立たずですよ!」 「ああもう、うっせーな」 「だったらそこどけ!」 「敬語忘れんな、ヤンキー」 「うるせー!」 「うるせーのはお前」  二人の言い合いに気がついた若林が止めに入ってくれて、それ以上飯塚に馬鹿なことを言うのは避けられた。  社長にはきつく叱られた。  ──その翌日、ワイドショーで面白おかしく取り上げられているのを見た。  ──その二日後、Ameのプロデュースをしていた作曲家、板崎洋がカメラに追い掛け回されている映像を見た。  椿のところにも取材に来た記者に怒鳴り散らし、社長から自宅謹慎を命令された。  ──その三日後、またワイドショーで志岐の生い立ちが取り上げられているのを見た。  椿は自宅で一人、これまで知らなかった志岐の生い立ちを知る。  板崎洋は、母親の再婚相手だったらしい。Ameのプロデューサーで、志岐の義理の父親だという板崎洋を知らない若者、中高年なんていない。アイドルソングからバンドの曲まで、多くのヒット曲を手がける有名な作曲家だ。そのため、椿が考えていたよりも事態は大きくなっていった。  ほとぼりが冷めるまで、まだ時間がかかるだろう。  ───その二日後、志岐がいなくなって初めて、桜田が椿のマンションにやってきた。 「うわ、酷い顔だあ。可愛くないー」 「……そういうのに付き合う気になれないんですけど」  ドアを閉めようとしたら、桜田が慌ててドアノブを引っ張って身体を滑り込ませた。 「ごめんごめん。和ませようとしただけなのになあ」  笑う桜田に背を向ける。  後ろで、靴を脱いで上がってくる音がした。それを聞いて、リビングまで通す。

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