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第五章 五

「だって、椿君泣くんだもん」 「……泣いてないですよ」 「無自覚?」  少しだけ身体を離した桜田が、そっと椿の目元を拭う。  小さな声で言い訳をした。 「気持ち、よかったから」 「うん。それもあるといいなあ」 「もう、そういうの嫌です」  今言葉にしてほしい。言ってくれるまでは待つと、もう言いたくない。それで機会を逃して、戻ってこないことがあると知ったから。踏み込む勇気を持てなかった後悔に、押し潰されそうだから。踏み込ませてほしい。その心に。 「椿君が俺を好きになってくれたとしても、ハッピーエンドじゃないなって思ったから」 「……よく、わかりません」  何の話かわからず、椿は聞き返すしかない。 「椿君には、あめを好きでいてほしい」  名残惜しそうに、一度ぎゅっと腕に力を込めた桜田は、ゆっくりと椿を離す。笑みを崩さず椿を見つめ、やがて迷いを断ち切るように目を瞑った。  それが何かの儀式のように感じて、桜田が再び自分に眼差しを向けるまで、椿は静かに見つめていた。  目を開けば晴れやかな表情になり、桜田は椿に脱がせた服を着せてくる。  服を整え、ベッドに二人で並んで腰掛ける。  穏やかで微笑みを絶やさない。先ほど見せた怒りや色気を纏う姿も持つことは、微塵も感じさせない。優しく、椿や志岐を安心させるいつもの桜田に戻っていた。 「さっき、志岐を好きでいるのが辛いなら、自分を好きになって甘えればいいって言ったの、桜田さんじゃないですか」  椿は理由を問う。それに、桜田は答えてくれる。 「うん……そう思った。甘やかしたいって思った。あめは椿君をおいて行ったんだから、その間に俺が貰ってもいいよねって」  声にわずかに、葛藤が滲む。 「でもさあ椿君、やっぱり駄目だよ。俺はさ、あめも大事な友人なんだよ。あの子がこの仕事をやり始めた時を知ってる。自分を傷めつけて、すべての救いを拒否してた時を知ってる。それが、君に出会って変わった。幸せそうに笑う顔を見ちゃったんだ」 「幸せそうに……?」 「うん。嘘の笑顔じゃなくて、本当の笑顔。君を特別だって、好きだって叫んでる表情」  桜田の言うことが信じられない。  好きだなんて。志岐が自分に言ったことなんて、ない。あるわけない。それは桜田の…… 「勘違いだと言うなら、それでもいい。でもあめの言葉に、嘘はなかった。それはわかるだろ? 嘘を吐くのが下手で、誤魔化すこともできずに、言えないことは言えないと言うしかないあの子の言葉。嘘はなかった。俺が知らない、あめが君に向けた言葉に、君への信頼や愛情は、本当になかった? 不貞腐れて忘れてしまったなんて許さない」  志岐の、言葉。  信頼? 愛情?  椿は志岐の言葉を思い出す。心に響いてきた、優しく、悲しい言葉たちを。 “ありがと” “友人として、死ぬほど心配するから” “椿由人に関わることを、俺が選んだんだ” “椿を思ったら、歌えたよ” “ 椿がいらないなんてこと、あるわけない” “椿に、会えて、よかった……”  ──始めて見た、本当の笑顔。  ──背中に感じた重み。額を擦り寄せ呟かれた、掠れた、儚い声。  ──椿を守ろうと飛び込んで来た、その華奢な身体。  ──指に落とされたキス。  ──雨のような、歌声。  忘れていない。忘れられるわけがない。 「キスはするなって言ったのは、なんで……?」  志岐とキスしたことなんて話していないのに、桜田はわかってしまっているようだ。 「キス、された」 「うん」 「笑ってた……っ、震えてた……っ」  意味を尋ねても、微笑むばかりで。  いつもと様子の違う志岐に問い詰めることをしなかった、後悔。椿はそれに項垂れる。 「それ全部、なかったことにするの?」  桜田の言葉に、椿は顔を上げる。 「全部、俺と君の勘違いだって言うの? あめの気持ちは本当になかったって、そう思う?」  もうわかるでしょ? と言いたげに、桜田は微笑む。しょうがないなと、椿の頭を撫でながら。 「君は、あめを好きでいなくちゃいけない。追いかけなくちゃ。冷静じゃなくたっていいよ。君が冷静じゃない分、それをサポートする人は、椿君の周りにいっぱいいるだろう?」  俺も含めてね、と付け足す。 「頑張れ、頑張れ、椿由人」  ……志岐を好きでいていい? 追いかけて、いい?  頑張れる。頑張れるよ。  志岐を捜そう。連れ戻そう。何も話さずにいなくなるなって、怒ってやらなくちゃ。次の仕事どうすんだって、聞かなくちゃ。  一緒に、謝りに回らなくちゃいけない人も、たくさんいる。  キスの意味も、聞かなくちゃ。  そして言わなくちゃ。……桜田には一生頭上がらねえぞって。 「ありがとう、ございます」 「うん。もうお礼は貰ったしね。可愛かったなあ」  優しい優しいこの人に、どうやって感謝の気持ちを伝えればいいんだろうと考える。 「キス、してもいいですか?」 「ん? それは、うーん。ほら、あめとキスしたんでしょ? 上書きしちゃったら悪いから」 「そういうとこ、遠慮するんですね」  へらへら笑う桜田に構わず、椿は唇を押し付けた。一瞬のキスだった。 「……いいの?」 「いいんです。志岐と再会したら、責任もってもう一回やらせるんで」 「お、急に強気だ」  可笑しそうに笑う桜田に、椿も自然と笑みが溢れた。 「椿君のあの動画を見て、好みだなあって思った。それだけだったんだけど、実際に君に出会って、あめと本気で向き合う姿を見て、好きになった」  桜田は微笑んで繰り返す。  確かにここに温かい気持ちがあると、椿は実感する。 「好きになったよ、椿君。だからまた、あめと向き合う姿を見せて。それが俺の、君の好きな姿だから」 「はい……、必ず、志岐を連れ戻します」 「うん。それであめが戻ってきたら、あめと一緒でいいからエッチしたいなあ。3Pしよ、3P」  急に戯ける桜田に、苦笑するしかない。 「いろいろ台無しですよ」 「あはは、でもまあ、本気だから仕方がないよね」 「本気なんですか!?」 「本気に決まってるじゃん! 椿君があめに挿れてー、俺が椿君に挿れる! 完璧だねっ」 「何がっすか!?」  志岐が帰ってきてからも思いやられそうだと、椿はまた苦笑する。  ──帰ってきてからのことを考えられるようになった自分を、不思議に思った。  ほんの数時間前まで、何の希望も見出せずに不貞腐れていたのに。いや、今も希望が見えたわけではない。心の持ちようが変わっただけだ。しかしそれだけで、本当に志岐を連れ戻せる可能性が出てきた気がした。 「さあて、寝よっか。明日作戦を立てよう」  桜田は晴れやかな笑顔で立ち上がって伸びをした。その桜田に向かって、椿は頭を下げる。 「はい。よろしくお願いします」 「名づけて、3P実現大作戦!」 「変な名前付けないでくださいよ!」  桜田の気持ち。  暖かくて、くすぐったくて、切なくて。  応えられなくとも、絶対に忘れない。……きっと、志岐も。  自分に言ってくれた言葉をそのまま返したいと、椿は思う。自分の知らない、桜田が志岐と交わした言葉にも、きっと信頼と愛情があったのだろうと思うから。それがなかったら、志岐が桜田との仕事を、ここまで続けてきたわけがないから。  3Pは……ちょっとどうかと思うから、もっと他のことで、志岐と二人で桜田へのお礼を考えよう。

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