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第五章 十

 久しぶりに手をかけた、事務所の入り口のガラスドア。  椿が姿を見せると、慌ただしく動いていた三、四人が振り返り、驚いた顔を見せた。驚いたあと、皆やっと来たか、というようにニヤリと笑う。椿はそれに微かに笑い返した。  一番奥の、社長の机に向かう。社長に笑顔はない。いつも朗らかに笑っている社長に、笑顔がないことの方が珍しく、やはりまだ怒っているのだとわかる。 「すみませんでした」  それだけ言って深く頭を下げた。 「頭は冷えたかい?」  社長の声に、椿は頭を上げる。 「冷えてません」  椿の言葉に、社長は目を丸くした。 「もちろん、反省してます。志岐がいなくなってからの行動すべてを。でも、冷静にはなっていません。今も志岐を連れ戻したくて連れ戻したくてたまりません」 「冷静じゃないなら、いくら天音のことを思っていても、天音を探しに行かせるわけにはいかない」  だよな。馬鹿正直に話し過ぎたか。 「冷静じゃない君が、さらに天音を追い詰めることになるかもしれない。君も、危ない目に合うかもしれない」 「はい……」  出直そうかと椿は考える。しばらくしてから、頭は冷えたと言ってみるか。けれどきっと、話したら冷静になんかなっていないとばれてしまうだろう。社長は椿にとっても志岐にとっても親のような存在だから、見抜かれてしまうと思う。 「いいじゃないっすか、冷静じゃなくても」  そのとき、俯く椿の頭上からあっけらかんとした声が降ってきた。  椿の背中を力強く叩いて、飯塚が隣に立つ。 「椿が冷静になる日なんて一生来ないですよ、社長。あっつい奴なんですから。むしろそれが取り柄でしょ。それ取ったらこいつなんかただの頭の悪いガキですよ」  椿と目が合うと、ニヤリと笑う。 「何があったのかしんねえが、ただのがむしゃらな暑苦しさとは違う、いい瞳してんじゃねえか」 「まったく……」  社長は椿と飯塚を見て深い溜息を一つ吐いた。 「椿君、天音を探しに行くときは必ず飯塚君と行くこと」 「マジですか!?」  ぎょっとして聞き返した飯塚に、社長は笑顔を向ける。 「大袈裟に驚いた風にしなくていいよ。僕が言わなくてもフォローするつもりだったんでしょう?」 「そんな面倒くさいこと俺がわざわざ自分からするわけないでしょう!」 「またまたぁ。飯塚さん、よろしくお願いしますね」  椿が擦り寄ると、飯塚はげえっと変な声を出す。 「こういうときだけ子どもぶりやがって」 「若輩者なんで!」 「ほんっとこういうときだけえ!」  呆れて見捨てられても仕方がないと、自分でも思っていることをした椿に、飯塚は頭をぐしゃぐしゃと撫でながら笑ってくれる。社長も「危険なことだけはするんじゃないよ」と、椿の身を案じることばかり言ってくれる。  二人の優しさに、胸が詰まった。  椿は改めて、自分が未熟だったことを社長や飯塚、社員皆に謝り、今日相馬から聞いたことを報告した。  社長はやはり、板崎洋と連絡を取ろうとしていた。板崎の方も出方を迷っているらしく、折り返しの連絡を待っているところだった。  一通りの報告を終えて、椿は久しぶりに自分のデスクに着いた。座りなれた椅子の感触にほっとする。それからパソコンを開き、相馬からもらったUSBを差し込んだ。引き出しからイヤホンを取り出し、装着した。  USBの中には音声データが一つだけ入っていて、それを開いた。やがて、「じゃあ最後の質問いいですか」という相馬の声が聞こえてきた。了承する志岐の声も聞こえた。  ……久しぶりに聴く、志岐の声。少し緊張している声は、椿が聞きなれない硬いものだった。しかし確かに、椿が好きな、少し高めの志岐の声。「やっぱり男が恋愛対象で、今も好きな人はいるんですか?」と、相馬が尋ねている。  その質問の内容に、椿はどきりとする。そんなことを気にしている場面ではないとわかっているのだが、志岐に今好きな人がいるのかというのは、やはり気になってしまう。  しばらく、沈黙が流れる。こんなこと答えるわけないよな、と思ったところで、志岐の声が聞こえた。 『俺が好きになったのは、やっぱり同性でした』 『どんな人?』  また沈黙があった。それから、志岐の微かに笑うような息遣いが聞こえた。 『俺の顔を、好きだと言ってくれた人』 『顔? 顔だけってこと? それって嬉しいの?』 『嬉しかった。表情を、見ててくれて。俺が作る表情が好きだって。笑顔に幸せをもらえたって、言ってくれた。その人にだけは、本当に心から笑えた』  ──まさか。  ここは書かないでと、志岐は相馬に言う。 『マネージャーとして、仕事で優しくしてくれたんだってわかってる。顔を好きだって言ってくれたのだって、千紗の歌があったからだってわかってる。でも』  まさか、あのときの、あんな言葉が。 『救われた。ずっとずっと自分が憎くて、顔なんか潰そうとか焼いてしまおうとか思ったこともある。鏡なんか見ると吐き気がして、割りたくなった。でもあの人に好きだと言ってもらえたから、それから少し、許せるようになった。あの人が辛かったときに、俺が救えていたんだとしたら、それはすごく、嬉しくて』  掠れた声だった。  あのとき背中に感じた重みを思い出す。 『最初は、気に入らなかった。Ameが好きだなんて、騙されてるとも知らずになんて馬鹿なんだろうって思ってた。それも、千紗の歌ならまだしも外見まで好きだなんて、どこまで見る目ない奴なんだよって』  可笑しそうに笑う。 『でもあのとき、壊れていく家族を見ながら、せめて笑顔でいようって、それだけしかできなかった俺を、あいつは見ててくれたんだって、わかった』  それから少し、間がある。先程の、答えるか迷っているかのような沈黙とは違う。心の深いところから、大切に浮かび上がらせたような、甘い声。 『椿由人を、好きになった』  耳に、手を添える。愛しい声を、少しでいいから、近くに感じたくて。 『恋愛なんてできる立場じゃないってわかってても、止められないくらい、どんどん好きになるんだ。たくさんのものを惜しみなくくれて。もうほんと、一生分の幸せをもらったんじゃないかってくらい』  喜びが滲む声を聞く。 『椿と会えて幸せだった。家族を壊して、自分の所為で失くしてしまった俺を、家族みたいに思ってるって言ってくれた。逃げてたけど捨てられなかった歌を、もう一度歌わせてくれた。なんて幸せなんだろうって、思った』  幸せ、なんて。俺が何を与えてやれたって言うんだ。一生分ってなんだよ。これからもっと、もっとやりたいことやって幸せになるんだろ。 『もういいんだ。俺はもう、十分たくさんのものをもらったから。だから』 『それ本人には言わないの?』 『言ってどうするの。困るだけだよ、そんなの。これから恩を仇で返すっていうのに、余計に困らせてどうするのって感じ。俺のことなんか、忘れてもらえたら一番いい』  なあ、志岐。そう言いながらも、俺にキスしたのはなんでだよ。一方的じゃないよ。俺だってもう、忘れられない想いを持ってる。忘れられるわけ、ないじゃないか。  手の届かないところにいる志岐に、椿は心の中で問いかけるしかない。 『あ、でも実は遠回しに言ったんだ。あいつ鈍いから気が付かなかったけど。“俺にとっての雅人は、椿だ”って』 『何の話?』 『あ、映画観てないだろ』 『なんで俺がホモ映画なんか見るんだ』 『あんたがそれ言う?』  漏れる嗚咽を、今度は我慢できなかった。隣にいた飯塚が驚いてこちらを見たことに気がついた。それでも、止められない。  あれは、もう一度歌えたっていう意味だけじゃなかったのか? 俺を思って歌うと言ったあのとき、お前の気持ちは──…… 『相馬……さん、あんたはもう、きっと椿を傷つけないだろ? 頼むから、椿を支えてやって。俺の所為で絶対辛い目に合う。だから』  辛い目になんか合うものかと、椿は唇を噛み締める。辛いのは、志岐がいないということ。それだけだ。 『頼むよ。椿はあんたのこと、嫌いじゃない。ちゃんと大事な仲間だって思ってるよ。だからお願い』 『余計なことばっか言うな。ここの部分師匠に聞かせられないじゃないか』 『あはは、ごめん』 『こんなくっさい告白を聴かせるのは、俺のなけなしの情に訴えるため?』 『そうそう。あんたも椿のこと好きなら、俺にちょっと同情してくれないかなって』 『……あんたって可哀想なくらい馬鹿なんだね』 『そうだよ。可哀想なくらい頭悪いからさ、椿の守り方がわかんないの。だから、頼むな』 『そう何度も言うな』  微かな笑い声を残し、音声の再生が止まる。 「おい椿? 何があった? おい!?」  涙が止められない。  志岐、志岐、志岐……! 「会いたい……」  呟くと、その思いが堰を切ったように溢れだす。 「会いたい、会いたい……!」 「椿……」 「志岐に会いたいです……っ、会わなくちゃ、俺……っ」  会いたい、会いたい、会いたい。  ただ、会いたい。抱きしめたい。もう一度、笑顔を見せてほしい。名前を呼んで。それだけでいい。それだけでいいんだ。志岐、俺もお前が好きなんだ。好きなんだよ。  抱きしめたいよ。触れたいよ。  志岐が消えたとき舞い散っていた桜は、すでに緑の葉を茂らせている。志岐と過ごした風景が、変わっていく。  それは志岐がそこにいた気配を消してしまうようで、椿は縋るように、耳に残る志岐の声をいつまでも反芻していた。 第五章 終

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