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第六章 三

 ココアを頼み、一口飲んでほっと息を吐いた板崎千紗を見て、血は繋がっていなくとも、どこか志岐と似ている女の子だと思った。  この子が、Ame。 「椿さんは、あめとずっと一緒にいたのですか?」 「いえ……あの事務所では俺の方が先に働いていて、志岐は三年ほど前にやってきました。でもあまり話すことはなくて、去年マネージャーになってから、深く付き合うようになりました」 「そうだったんですね……。映画、見ていないんですけど、あの子、歌ったんですね」  板崎千紗は微笑んだ。 「あの子の歌、私大好きなんです」 「俺も、です」 「綺麗な声でしょう?」 「……雨の音みたいだと思いました」  そう言うと、板崎千紗は目を丸くした。 「私も同じことを、あめに言いました」 「板崎さんも……?」 「千紗って呼んでください」  クスっと笑った彼女は、遠い過去を思い出すように語り出した。 「私の父とあめのお母さんは、私が高校一年、あめが中学三年のときに再婚しました。私のことを、あめは本当の姉のように慕ってくれて、私も素直で愛らしいあめがすぐに大好きになりました」  素直で愛らしい、というのは今の志岐とは大きく印象が異なる。椿の表情からそんな気持ちがわかったのか、千紗は微笑む。 「今は違いますか?」 「素直……ではないですね。ぶっきらぼうで生意気で」  千紗はふふっと、小さな声を出して笑った。 「あ、すみません。でも、たまに屈託なく笑う顔は、愛らしい、と思います」  正直に答えてしまってから、椿は恥ずかしくなって顔が熱くなるのを感じた。  また椿の気持ちがわかったのか、千紗は可笑しそうに笑って話を続ける。 「打ち解けたのは、私もあめも歌うことが好きだったから、というのが大きいです。あめとあだ名を付けたのも私です。その頃のあめの歌は、決して上手くはなかったけど、すっと心に入ってきた。空から降ってきて、周囲を潤す雨の音。だから、あめと」  志岐の大切な人。この人と同じことを言ったから、志岐はあのときあんなにも驚き、泣いたのだとわかった。 「二人でたくさん歌いました。そんなに幼くもなかったんですけど、初めてできた姉弟という存在が特別で、嬉しくて、家にいるときはいつも二人で歌ったりおしゃべりしたりしていました」  幸せな思い出。それを思い出す千紗の顔は、柔らかい。志岐がココアを飲んで母親を思い出したのと同じ、温かい思い出が確かにあるのだとわかる。  しかしその表情が、陰りを見せる。 「一緒に暮らし初めて半年ほど経ったとき、あめは声が出なくなりました。大好きなあめの歌が聞けなくなったことを、私は悲しみました。原因は心因性のもの。でも家族仲は上手くいっていたし、原因がわからなかった。私もあめもいわゆる思春期でしたけど、特に大きな反抗期もなくのんびりとした子どもでした。だから新しい母とも父とも、上手くやっているように思えたんです。特に父は芸能人でしたけど、再婚したことは公表していませんでしたし、静かな環境だったというのもあります」 「思えたってことは……?」  実際は違ったということだろうか?  椿の質問には答えず、千紗はただ、痛みに堪えるかのような表情をする。それから、話を続けた。 「ふとした思いつきでした。『私があめの声になる』と言って、あめの口パクに合わせて、私が歌いました。声が出ないあめと、せえので合わせて。二人とも大好きな、洋楽でした。あめはすごく喜んでいました。私たちはお互いの歌声に、とても惹かれていましたから」  口パクに声をあてる……それは。千紗は弱々しく微笑んだ。 「その頃、父も関わっていた事務所の経営は、上手くいっていませんでした。その父が、たまたま私とあめがやっていたことを見て、これでデビューしてみたらどうかと、社長に話しました。私とあめはただ歌が好きなだけで、それがどういうことかわかっていなかった。そしてデビューして、皆さんご存知の通り、Ameは話題になり売れていったのです」  誰を騙すでもなく、失われた声になろうとした。そんな、優しいものだったのだ。本来のAmeは。歌が好きなだけの純粋な心を持つ二人の、綺麗なもの。 「デビューしてしばらくして、逆に家庭が上手くいかなくなり、離婚することになりました。何が原因だったのか、そのときの私にはわかりませんでした。お母さんができたと喜んでから、あっという間にも思えた時間でしたから。母はもうAmeも辞めたほうがいいと言ったけれど、私とあめが抵抗しました。私たちは離れたくなかったのです。離婚してAmeまで失くなってしまったら、私とあめは一緒にいられなくなる。そう思ったから」  志岐は言っていた。“壊れていく家族を見ながら、せめて笑顔でいようって、それだけしかできなかった”と。壊れていく家族というのは、両親のことだったのだろうか。 「離婚してから、あめの声は戻りました。そして私と同じように、あめも歌のレッスンを始めたんです。久しぶりに歌ったあめは、専門的に勉強するようになって、どんどん上手くなっていった。そこで父は、Ameが実は男で声変わりしたということにして、活動を少し休んだ後に再開してはどうかと言いました。あめは高校生になってから背が伸びていたし、同年代の男の子の中では華奢と言っても、だんだんと無理が出ていたことに変わりはなかったから」  千紗の表情にますます影が落ちる。声が、悲しみ以外の感情を帯びた気がした。 「私は、もう引退というわけです。声がAmeなのですから、デビューし直すわけにはいかない。その頃歌手として生きていくことを夢見ていた私は、音楽家として尊敬していた父に捨てられるようで焦りました。嫉妬もあった。実の娘ではなく、あめをとるのかと。それをあめにも、ぶつけてしまったんです。あんなにも優しいあめに。私を慕ってくれていたあめに……!」  千紗の瞳に、涙が浮かぶ。  押し殺しても溢れ出る自分への憤り。それが彼女の言葉を詰まらせているのだとわかる。 「『私はあめの影に隠れ続けて、このまま消えるんだわ。あなたに、出会わなければよかった』」  顔を歪める。 「酷いでしょう? あめが悪いわけではないのに。あめだって、きっと自分で歌いたかったのを我慢していたでしょうに。あのときの私は、何も見えていなかったの。あのときのあめの悔しそうな、悲しい顔は忘れません」 「少し……違うかもしれません」 「え?」  千紗は、疑問を表情に浮かべる。 「あいつは、多分自分で歌いたいとは思ってなかった。あなたの歌が好きで、聞いていたくて……ただ、純粋に。悔しそうな顔っていうのは、きっと、あなたにそういうことを言わせてしまった自分に対して、だと思います」  椿も志岐からそのときのことを聞いたわけではない。ただ、志岐にとって辛い過去だったはずのAme。そのCDを今も枕元に置いて大切に持ち、落ち込んだときには歌を聴きたがったのを覚えている。  だから、思うのだ。志岐は、自分が歌おうとは思わなかったんじゃないかと。大好きな人の、大好きな声を聴いていたかっただけなのではないかと。 「そう……そうですね。あめは、そういう子でしたね」  静かに頬を伝う涙。 「あなたは、それでその……自殺未遂を……?」  聞きにくいことだったが、志岐のすべてを知るためには聞かなくてはならない。  千紗は、首を振る。

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