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第六章 四
「父に捨てられたことは、私に実力がないからだと、仕方がないと、納得するようになりました」
「なら、なんで……」
「知ってしまったからです。真実を」
千紗はテーブルの上に置いた手を握りしめる。唇は震え、顔は青ざめる。
「あめは、私をどうにかデビューさせ直してほしいと父に掛けあっていたようです。そして、私のことを考え直させることと引き換えに、父に抱かれたのです」
「抱かれた、って……?」
どういう、ことだ。
言葉の意味がわからず、椿は聞き返した。
「あめの声が出なくなったのは、中学生のあめを、私の父が犯したからだった……! でもあの子は、私と離れたくないがために、ずっと隠してた……! 母はそれに気がついて離婚して、父と遠ざけるためにAmeを終わらせようとしたのに、私とあめが拒んだ。それでも、離婚して父から離れて声が出るようになったのに、あめは、私の所為でまた自ら抱かれたんです……!」
待ってくれ。なぜ、そんなことが。
手が、震える。頭は働かない。千紗から発せられた言葉を、ただそのまま耳に入れることしかできない。何も考えられない。
「私はそれを、取り返しがつかなくなってから知りました……再び、父があめを犯したあとで……! 絶望しました。何があめの声になる? 私の父が、あめの声を奪っていたというのに。私は自分の愚かさが許せなくて、耐えられなくて、逃げたんです!」
真実を知り、彼女は自殺した。
その絶望を、椿も今、感じる。
「目が覚めると、あめはいなくなっていました。わかったでしょう? もう、私があめと会うことは、できないんです。それでも、あめを探さなくちゃいけないと思った。今、また苦しんでいるあめを、私が今度は、見つけなくちゃって」
どうやって千紗と別れたのか、定かではない。連絡先は、聞けた気がする。
事務所には、内容を報告なんかできなかった。手がかりを考えるなんてことも、できなかった。
椿のそんな様子を見て、社長も飯塚も無理に聞き出そうとはせず、黙って帰してくれた。
傘を差す気力もなくぼんやりと歩いて帰った。なんとか家に辿り着き一歩玄関に入ると、椿は崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。顔を覆う。自分が震えているのがわかる。
……志岐。
どこまで深い傷を、お前は背負って生きてきたんだろう。
自分が父親に抱かれたから。だから家族が壊れたと責めているのか、今も。だからあえて、男に抱かれることを、それを見せ物にすることを選んだのか。もっとも自分の傷を抉るものだから。
それでも足りない足りないと、もっと自分を傷つけようとして、自傷行為を繰り返して。
その行動の意味が、やっとわかる。
椿は力いっぱい、床に拳を叩きつけた。
なんで。なんで。なんで。
なんであいつが、辛いことばかりを背負うことになる? どうしてそんなに傷つけられなくちゃならない? どうして全部自分の所為にする? どうして他人にぶつけない?
──どうして、俺にぶつけてくれなかった。
わかるよ。こんなこと、話せるわけない。そんなことわかる。わかるけど、悔しい。何も知らずに、呑気にあいつの隣にいた自分が。
悲しい。悲しい。
俺に救われただって? ほんとに? これほどに深い傷が、俺なんかに?
“なんて幸せ”
志岐の声が耳元で聞こえた気がして、椿ははっと顔を上げる。
幸せだと、志岐が言った。
馬鹿か。自分の愚かさを嘆いている場合じゃない。守れなかったことを、嘆いている場合じゃない。
志岐が、幸せだと言ってくれたんだ。その言葉を、自分を、信じるしかないだろう。
自分は志岐を救う力があると信じて、立ち上がるしかない。みっともなくてもいいから、もう一度志岐の前に立つと決めたんだから。
こんなところで、しゃがみこんでる場合じゃない。
──立ち上がれ。
◇
翌日、椿は千紗に連絡をとって再び会った。
志岐を連れ戻すために、あなたの協力が必要だと。
彼女の心の傷に触れる、辛く厳しいことを頼んだ。しかし涙を浮かべながら、手を震わせながらも、千紗はしっかりと頷いてくれた。
それから桜田と相馬にも連絡して、板崎千紗と会ったことを話した。
相馬には、板崎洋と志岐の関係は探らないように頼んだ。志岐が何をされたのか、それを知っているのは当事者の二人と、志岐の母親と、千紗だけだと思う。しかし、何がどこから漏れてしまうともわからない。そうしたとき傷つくのは、志岐や、板崎洋の娘である千紗だ。それは避けたかった。志岐が守っている女の子を、椿も守りたいと思ったから。
守るとは言っても、協力は得る。
それは志岐にとって、望んでいることではないかもしれない。彼女が自分に関わることを、志岐は避けていたのだから。
しかし、彼女は志岐を探しにきた。絶望を乗り越えて、志岐にもう一度、関わろうとした。そんな千紗の意志を、椿は大事にしたかった。
いや、それは綺麗事だとわかっている。志岐を取り戻すのに、自分は彼女の意志を利用するのだと理解している。
椿がそう言うと、千紗は笑った。
「私も椿さんを利用するんです」
と。
数年ぶりに人前で歌う彼女の手は、震えていた。それでも歌声は、昔のままだった。澄み渡る大空、温かな陽の光を連想させる、透明感と瑞々しさに溢れた歌声。
椿と一緒に考えた歌詞を、彼女が作った綺麗なメロディにのせる。椿の想い、彼女の想いをのせて。
──中学生の志岐。
どんな思いを抱えていたのだろう。
父親になったはずの人に犯されたとき、その声を失くしてしまうほど、きっと苦しかったはずだ。それでも何も話さなかったのは、母親のため? 千紗さんのため?
二人とも、大切だったんだろうな。二人とも、守りたかったんだろうな。
志岐は誰かを守るために強くなる。昔から、そうだったんだな。俺なんか敵わないくらい、強い奴なんだ。
でもそれって、いいことかな。
俺も、愛梨を守りたくて、家族にもこれ以上迷惑をかけたくなくて、離れたよ。それで確かに、守れたものもあったかもしれない。
でも失くしたものの大きさに、ときどき押し潰されそうに感じることがあったよ。
お前はなかった? ……あったよな。
でもそれ以上に、自分を責める気持ちが、強かったんだろう。押し潰されそうな思いに耐えるだけでは、自分を許せなかったんだ。だから抱かれたんだよな。
すべての元凶だった行為を、お前が好きなわけがない。それでも、繰り返し繰り返し。より苦痛を味わうために、より酷いものをと求めて。
それが変わったのは、いつからだった? 楽しそうに仕事をするようになったのは、いつからだった?
……俺を好きになったのは、いつから?
俺はね、実はよくわからないんだ。いつから志岐を好きになったのか。俺を相馬から守ってくれたときなのかなって思ったけど、本当はそうじゃないかもしれない。
一目惚れだったんだと思う。大きな瞳。透けるような白い肌。女の子みたいに可愛い顔立ちに、まず心奪われたのかもしれない。それは何年も前、Ameとしてテレビを通して見かけたときに。
それから志岐天音として出会い、一緒に過ごして、自分を傷つける姿を見た。胸が傷んで。見ているのが辛くて。本当の笑顔が見たくて堪らなかった。
そして見た本当の笑顔に、再び心奪われた。
不器用な志岐。生意気な志岐。儚くも強い志岐に、惹かれていった。
気づいたときには動揺して、嘘をついて自分の気持ちに蓋をした。もし蓋をしないで素直にぶつけていたら、お前どんな反応をした? あのときすでに俺のことを好きだと思ってくれていたのなら、もしかして喜んでくれた? そしたら、今も、一緒にいられたのかな。一緒に、ここから逃げたのかな。傷を、見せてくれたのかな。
後悔は、してるけど、でも取り返しがつかないとは思わない。思わないようにする。
桜田に叱咤された。
相馬にお前の想いを、届けてもらった。
社長が、飯塚さんが、心配してくれる、見守ってくれている。
千紗さんに、出会えた。
俺も志岐も、思っていたよりずっと、たくさんの人に支えられていた。愛されていた。それを知ることができた。だからこうなったことも、意味があることだと思うんだ。でもそれは、志岐に伝えることができたら、だ。
志岐は、愛されてる。傷つけたと思っていた、女の子にだって。それを伝えたい。
それから、俺も、志岐が好きだって、伝えたい。会いたいよ。好きだよ。
優しいメロディが、陽の光のような歌声が、そんな想いを伝えてくれると信じている。
どうか、届きますように。
君に───。
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