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第六章 五
「よく考えたねえ」
椿が考えたことを話すと、社長はなるほど、と呟いたあと、いいねと笑ってくれた。
椿が考えた志岐を連れ戻すための方法。それは、千紗に歌ってもらうことだった。
志岐が求めていた歌声。
どんなに辛くとも、決して命を絶とうとはしなかった志岐。志岐が再び聴くことを諦められなかった歌声に、すべてを託そうと思った。
切ない声が、帰ってきて、帰ってきてと歌う。会いたい、会いたいと。
それは椿と千紗の想いだった。
一緒に歌詞を考え、千紗が曲を作ってくれた。その歌を録音して、動画として作った。
それを───
「まさかあのサイトにUPするとはね」
椿が自慰動画を載せているサイト。その、椿の動画が載っている年・月に並ぶように、UPした。
「志岐は、いつか必ず見てくれると思います。いつになるかは、わかりませんけど……」
「どうして?」
皆が帰ったあとの静かな事務所で、社長と二人きりで話す。窓際に立ち、緑が濃くなってきた並木道を見下ろしながら。
二人だけで話すのは、久しぶりな気がする。
社長が穏やかな顔をしているのは、世間の志岐への関心が薄れてきたからだ。いろいろ対応に追われていた社長も、少し息が吐けるようになったのかもしれない。
「僕には天音が、AVしかないあのサイトを見るとは思えなかった。それも、五年も前の動画の位置を」
微笑む社長。窓の外から椿に視線を移す。椿に向けられる眼差しは、どこまでも温かい。
社長は、多分待っているのだと思った。椿が自分から志岐への想いを話すことを。だから動画を載せた今日、自分と二人で話す時間を作ってくれたのだと思う。
「志岐が初めて俺の前で笑ったのは、俺のあの動画を見たときでした。腹抱えて子どもみたいな顔して、笑ったんです」
椿はあのときの志岐を思い出す。椿にとっては恥しか残らない二度と見たくない動画だったが、志岐は違う受け取り方をしていたように思ったのだ。椿のあの、色気もない慌てふためく様子を見て、何か吹っ切れたかのような。だからきっと、あの動画を見ようとするはずだ。会いたいと思ってくれているなら、絶対。
自分はまだ志岐に好かれていると、会いたいと思ってもらえていると、都合よく信じるしかない。
「ただの俺の勘です。でも志岐は、絶対見ます。俺のあの動画を見る。その隣に、今までなかった動画、画面は静止画で、投稿者をTisaにしました。そんなものがあったら絶対、開くはずです」
「天音のことがよくわかってるんだね」
意味ありげに微笑む社長を前に、椿は一つ深呼吸して、頭を下げた。
「志岐を、好きになりました。志岐が帰ってきたら、俺はそれを志岐に伝えるつもりです。志岐のマネージャーを辞めることも、事務所を辞めることも、受け入れます。でも、志岐が戻ってくるまでは、俺をここに置いてください」
社長のことだから、志岐を辞めさせるなんてことはしないだろう。
「もう、言わずにはいられないんです。志岐が、受け入れてくれるかはわかりませんが、それでも俺は言うつもりです」
頭を下げていて、社長がどんな顔をしているかはわからない。
驚いているだろうか。困っているだろうか。呆れているだろうか。担当のタレントに手を出すと宣言した自分を。
学歴もない、ろくに敬語を使えもしなかった椿を、雇ってくれた社長。親のように、優しく見守ってくれている人。その人に、恩を仇で返すようなものだとわかっている。
「君って子は……」
ああ、そうだよな。いくら社長でも、呆れるよな。認めるわけにはいかないよな。
椿はゆっくりと頭を上げる。「これまでありがとうございました」と伝えるつもりで。
「若いときの僕にそっくりだ」
思わぬ言葉に、椿は「へ?」とマヌケな声を出す。
「広い視野を持てなくて、これ、と思ったことに一直線。大事なことを見落としていたと気がつくのは、いつもあとになってから。それを取り戻そうと足掻いてばかりでとても格好が悪い」
社長は、いたずらっぽく笑った。
「僕のことね」
「社長が……?」
「うん。似てるでしょう? 君に。自分のタレントを好きになってしまうところまで一緒」
昔、葉山社長は女優、上崎彩乃のマネージャーだった。
「ねえ椿君。天音が戻ってきたら、それは椿君が戻してくれたんだよ? 事務所の一番の稼ぎ頭を連れ戻してくれた有能な社員を、辞めさせられると思う?」
「そ、んな、でも、」
「それに、天音に振られちゃうかもしれないでしょう? そうしたらどうするの。仕事もなくなって天音もいなくなっちゃったら椿君寂しいよー」
「や、そりゃ、寂しいですけどっ」
社長はいつも通りの柔らかい笑みを浮かべ、椿の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「僕と君が違うのはね、僕は彩乃を諦めようとしたんだよ」
初めて聞いた。社長と上崎彩乃については、誰も深く聞けないでいたから。愛する人を早くに亡くした社長に、社長と一番付き合いの長い飯塚でさえ、このことに関しては深く聞くことができないと言っていた。
「諦めようとしたらね、彩乃が飛び込んできてくれた。私を手放すなって。要領の悪い僕は、彩乃がいなくちゃ人生百倍苦労するって」
テレビで見たことのある淑やかで女性らしい上崎彩乃の姿と一致しない。
「彩乃はそれはそれは気が強くて、素は普段ファンに見せている姿とは正反対だったんだよ」
社長は、椿の頭をひとしきり撫でたあと、手を止める。椿は顔を上げて、社長をまっすぐに見つめた。
「事務所の社長としてこんなことを言うのは間違ってるかもしれないけど……天音を手放すな」
力強い声。
椿はそれに頷く。
「僕にはできなかった決意を君は自分で、した。それを絶対、曲げないでくれ。天音も君も、幸せになって。できれば、僕のそばで」
「……っ、ありがとう、ございます……!」
椿はそれしか、言えなかった。
志岐に届けたい言葉が、想いが、また一つ増えた。
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