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第六章 六

 ◇  五月も下旬になると、日によっては初夏を感じさせ、自転車で事務所に通うときには少し汗ばむ陽気になっていた。椿はTシャツに薄い上着一枚を羽織り、夕焼け空の下、事務所から帰宅する。自転車を走らせていると、時折ビルの間から夕日が差し込み、眩しさに目を細めた。  志岐からの連絡は、まだない。  あの動画を見ても連絡をしなかったのだとは、考えない。そんなこと、あるわけがない。志岐が求めていた歌声なのだ。あれを聴いて戻ってこないわけがないと、椿は何度も自分に言い聞かせていた。  すぐに連絡が来ずとも落ち込まない椿を見ているのに、桜田は何かと理由をつけて椿の様子を見に来た。それは相馬も同じで、椿の家でよく二人は遭遇していた。最近は一緒に帰ったりもするから、もしかしたらちょっと仲良くなっているのかもしれないと思う。  マンションの自転車置場に自転車を停めたとき、携帯に着信があった。画面には『相馬秋良』の文字。相馬からの連絡は珍しくもなくなっていたから、椿は自転車に鍵をかけてマンションの階段を登りながら、何の気なしに通話ボタンを押した。 「もしもし?」 『あ、椿君?』 「え? 桜田さん?」  声は間違いなく桜田だ。どうして相馬の携帯から桜田が、と椿は疑問に思わずにはいられない。しかし桜田は、椿の訝しむ様子を気にもせずに用件を言う。 『椿君、今から相馬君の家来れる?』 「あ、今家帰って来たとこなんで行けます、けど。でもなんで? 相馬は?」 『相馬君は今手が離せないっていうか……うーん、どうしようかな。こっちから行った方が後々のためにもいいか。相馬君? 車運転できるー?』  少し遠くにいるらしい相馬に、桜田が呼びかけている。一体なんだって言うんだ?  とりあえず部屋のドアの前に着いたため、鞄の中から鍵を取り出す。そこで、電話から離れたところにいるらしい相馬の声が聞こえた。 『できるけど、そしたらあんたがこいつ捕まえててね』  そんな相馬の声を遮るように聞こえた、怒鳴り声。 『ふざけんな!! 離せ!!』  椿は鍵を落とした。金属音が廊下に響く。  今の……今の声…… 「志岐!?」 『俺は椿には会わない! 会いたくない! 会いたくないんだよ! ふざけんなふざけんな!!』  志岐の叫ぶ声が聞こえる。聞いたことがないほど、感情が振り切れた声。ありったけの力で叫んでいる。喉が、切れてしまうんじゃないかと思えるほど、悲痛な声だった。 『お前……ちょっと落ち着けよ』 『やだやだやだ!! 椿には会いたくない! あんなことしたのはどうせ椿だろ!? 千紗を巻き込んだ! 許せない!!』 『あめっ』  何かが落ち、割れる音がする。  志岐の言葉が、血を吐くような思いが、心に突き刺さる。それでも、志岐がそこにいるとわかったら、椿の身体は自然と走り出していた。 「俺が行く! すぐ行く! 絶対志岐を捕まえててくれ!」 『聞こえた? 相馬君?』  ハンズフリーにしているらしい。 『聞こえたけどね……これ取り押さえとくって結構大変なんだけど。一発殴って黙らせていい?』 「駄目! 絶対駄目だからな! 志岐に暴力は絶対駄目だ!」  走り出してから車で行った方が早いと気が付き、引き返す。部屋に駆け込んで車のキーを持ち、階段を一段飛ばしで駆け下りる。  なぜ相馬のところに志岐がいるのかはわからない。しかし、そんなことはどうでもよかった。  志岐がそこにいる。志岐にまた会えるのなら……! 会いたくないと思われていてもいい。どんなに厳しい言葉を浴びせられてもいい。会いたいから。抱きしめたいから。伝えたい言葉があるから。  相馬の家に着き、椿はインターホンを鳴らす。返事があってから、ドアが開くまでの数秒でさえもどかしい。  ドアを開けたのは桜田だった。 「早かったね、椿君」  息を切らして立っている椿を玄関に招き入れ、桜田は部屋の奥にいるらしい相馬に向かって声をかける。 「相馬君、椿君来たよ」 「上がって、先輩」  靴を脱いで促されるまま廊下を進む。  志岐がこの奥にいる。そう思うと、心臓が早鐘を打つ。 「志岐、志岐は!? なんでここに!?」 「あめはあの動画を見たらしい。それで、相馬君のところに連絡してきた。俺の家と相馬君の家は近いから、相馬君が先に俺に連絡してきたんだよ。捕まえて椿君に引き渡すとか物騒な言い回しだったから、急いで来たんだ」  桜田が苦笑する。 「まあ実際は、あめの方が興奮しちゃってね」 「電話の……あれ、何が起きてたんですか?」 「うん……あめと、話してみて?」  多くを話すことはせず、桜田はリビングのドアを開く。 「これ……!?」  思わず言葉を失った。  いつも綺麗に片付いている相馬の部屋が荒らされていた。読書家の相馬の家にはリビングにも本棚があって、普段はたくさんの本が整然と並んでいる。それが床に散乱していた。その一つを拾い上げた相馬が、椿に気がついて顔を上げる。その顔を見てぎょっとする。 「お前、それ!?」  相馬の頬が腫れている。元々色が白いから、赤く腫れているそこが痛々しい。 「細い癖に馬鹿力だから」  そう言って相馬が顎で示した先、フローリングの床に転がっていたのは志岐だった。相馬が椿にしたときのように、手足が縛られている。 「志岐……?」 「暴れ疲れて寝てるよ」  志岐に近づこうとして、床に散らばっているコピー用紙を踏んでしまう。椿は慌ててそれを拾い、ついでに周辺にある紙類を集めて相馬に手渡した。 「志岐に変なことしてねえよな? つーか縛んなよ」 「縛ってなきゃ俺がボコボコだよ」 「もうちょい避けんの上手くなれよ」 「あのねえ、喧嘩慣れしてない奴がただ暴れるのを怪我させないで止めるって相当大変だよ? 先輩だって手こずったと思う」  不貞腐れた相馬に、少し笑ってありがとうと伝える。 「あめ、あんまり眠れていなかったみたいだ」  桜田の声で、志岐に視線を戻す。寝息も聞こえないくらいに静かに、ただそこに横たわっている。  そこに、いるのに。緊張して、一歩がなかなか踏み出せない。それを誤魔化すように、また床のものを拾おうと手を伸ばして、桜田に止められる。温かい手が、椿の手を包んだ。きゅっとわずかに力が込められたあと、そっと離される。 「そこにいるよ。君が会いたかった、あめが」  こみ上げてくるものがある。  志岐のそばに立ち、しゃがむ。手足を縛っているタオルを解く。触れた手は、桜田のものより冷たい。しかし確かに、そこにある体温。  顔を覗き込めば、目の下に、隈ができているのがわかった。綺麗な肌は相変わらずだが、顔色が悪い。少し痩せただろうか。ちゃんと食べていたのだろうか。 「志岐……」  呟いた声は、情けなく震えている。それを聞いた桜田がふっと一つ息を吐いた。 「俺たち、ちょっと散歩してくるね」 「はあ? ここ俺ん家なんですけど」 「相馬君、タオルケットとか毛布とかない?」 「あんた、人の話聞かないときあるよね」  相馬は溜息を吐きながらも、タオルケットを持ってきて、志岐に掛けてくれる。そして、桜田と一緒に出て行った。  ドアが閉まる音が聞こえた。部屋はしんと静まりかえる。  ベッドかソファに運んでやりたいけど、動かしたら起きてしまうだろうと思い、椿もただ志岐の横に転がった。フローリングの床はひんやりとしていて、走ってきて火照った頬を冷やしてくれる。志岐が起きてもいなくならないように、そっと手を握った。  ああ、志岐がここにいる。ここに、いる。触れられる。  志岐が起きたら、最初になんと言おう。志岐は、やはり怒っているのだろうか。恨むだろうか。電話で聞いたあの言葉を、自分にぶつけるだろうかと考えるが、それでもよかった。志岐が話してくれる言葉なら、なんだって。

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