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第六章 七
志岐の目が覚めたのは、それから一時間後だった。椿は飽きもせずに志岐を見つめ続けていたから、その長い睫毛が震え、瞼が持ち上がる様子もすぐにわかった。
「椿……?」
大きな瞳が椿を映し、ぼんやりと名前を呼ぶ。
「志岐、おはよ」
椿が笑って言うと、志岐も「おはよ」と微笑み返してくれる。夢を見ているかのように、微睡みながら。
しかし数秒して、状況を思い出したらしい。ぱっと起き上がり、椿を見る目がみるみる厳しくなる。
「相馬……っ、あいつ、裏切ったな!」
「裏切ったんじゃない。あいつはお前のこと心配して俺に教えてくれたんだ」
「うるさい!」
叫んだ志岐は立ち上がり、椿の横をすり抜けようとする。それを、腕を掴んで引き留めた。
「どこ行くんだ?」
「相馬はどこだ? あいつ、千紗の居場所も知ってるだろ。それ全部取り上げないと」
「俺も知ってる」
志岐は椿の手を振り払い、睨みつける。
「椿がなんで! 千紗を巻き込んだのも、どうせお前だろ! なんで千紗を巻き込んだ!?」
志岐が椿の胸倉を掴んだ。椿は抵抗せず、志岐の怒りを受け入れる。
「千紗さんに会ったよ」
「なんでだよ! 関係ないだろ! なんで余計なことすんだよ!! 俺はっ、もう全部辞めたんだ! お前とも事務所とも、もう関係ないんだよ! それなのに余計なことして……っ」
「守りたかったのに?」
志岐が目を見開く。椿を掴んでいた手が、力なく落ちる。
「お前、何をどこまで聞いたんだ……?」
「全部。相馬からも千紗さんからも、全部聞いた」
志岐の顔に笑みが浮かぶ。泣きそうな、歪んだ笑顔だった。
「ああそう。じゃあ聞いたんだ? 驚いただろ? しょうもないガキだろ? 義理の父親を誘って、母さんも千紗も裏切って。汚いだろ? どうしようもなく汚い。吐き気がする」
「千紗さんを守るためだったんだろ」
「守る? 何が守れた? 俺がやったことが千紗を追い詰めて、殺しかけたんだ。そもそも俺がもっと強ければ、声が出なくなることもなく、Ameなんてものも生まれなかった。俺が、俺が全部悪い。俺だけが悪い」
「志岐……」
志岐は俯き、両手で顔を覆ってしまう。自分が悪い、汚いと繰り返し、その手が爪を立てる。
出会ったときと同じだと思った。痛みを、罰を求めずにはいられない。身体の痛みだけじゃない。心も傷つけようとしている。言葉で膿んだ傷を抉って、さらに深く、深くと。
額や頬を傷つけようとする志岐の手を掴む。しかしその手は、また振り払われてしまう。
「全部俺のせいなのに! なんで今さら千紗を巻き込んだんだ! あの子は関係ないのに! 俺のことで千紗が傷つくことなんて、もうあっちゃいけないのに!」
もう一度腕を伸ばし、抵抗する志岐をかまわず覆うように抱きしめる。
「……っ、離せ! 離せよ!! 椿がいなかったら! 千紗が巻き込まれることもなく、全部終わってたのに!」
志岐は椿から離れようと、もがき、胸を叩く。
「椿なんか嫌いだ! いつもいつも余計なことばっかり! ほっとけって言ってんのに、何も聞いてない!」
「うん」
「千紗を巻き込んだお前を、俺は絶対許さないから!」
「いいよ。許さなくていい」
「許さない! 俺が、守ろうとした人を……!」
椿の胸を叩く力は弱まらない。その強さが、千紗への想いの強さのような気がした。志岐にとって、大切な大切な、宝物のような女の子なのだとわかっている。
しかしそれは、彼女も同じだ。
「千紗さんは、今度こそ志岐を救いたいって言ってたよ」
志岐の手が止まり、驚いたように椿を見上げる。
「千紗さんも、自分を責めてた。でも今度こそ志岐を助けたいって、それであの子は歌ってくれた。何も知らずにお前を責めてしまったこと、自分の父親が志岐にしたことを知って、自分を責めてた。志岐と同じように、もう会えないって言ってた。でもあの子は、踏み出してくれたんだよ。志岐を救うためにって、自分で歩き出したんだよ。歌ったんだよ。志岐の大好きな声で」
志岐の瞳に涙が浮かぶ。唇が震える。
「聴いた……。変わってない、声……」
「うん。綺麗な声だったな」
「あの声が、ずっと、聴きたくて……」
ぽろぽろと溢れる涙。椿を叩いていた手は、自分を傷つけようとした手は、今は縋るように握りしめられる。
「聴きたくて、ずっと……! そんなこと願う資格なんかないのに、諦められなくて……! 俺なんか、もう死んだ方がいいって、わかってるのに、どうしても、もう一度聴きたくてっ」
うん、うん、と志岐の言葉を聴きながら、抱きしめる腕に力を込める。
お前の痛みを、俺にわけてほしいんだ。悲しみを隠して笑わないで。涙を流す姿を見るだけで、その意味がわからないなんて、もう嫌なんだ。だからなんでもいい。俺を罵る言葉でもなんでもいいから、話して。
「諦められないけど、諦めてて……! なのに、聴いちゃったから……。会いたいって、歌ってくれてたから……っ」
「よかった、聴いてくれて」
「……っ、嫌いだ。椿なんか、大嫌いだ……! 俺が諦めてたもの、思い出させるようなことばっかり! 椿に出会わなければ……っ」
「出会わなければよかった?」
そう聞くと、志岐が腕に力を込め、椿の胸を押す。椿の顔が見上げられるくらいに身体を離した。
目が合えば、椿は苦笑するしかなかった。出会わなければよかったと言われて心が痛むのを、誤魔化すための笑顔だった。志岐の本音を聞くことは、今は喜ぶべきことなのだから。
しかし椿に向けられる瞳は、鋭さを失い静かな光を湛えた。
「椿に出会わなければよかったなんて、言えるわけがない」
それから志岐は表情を崩し、泣きじゃくった。
戻ってくるつもりはなかったのだと。もう椿の前にも、事務所にも、現れるつもりはなかったのだと。
何があっても戻ってこないと決めたのに、志岐は椿の姿が見たくなって、漫喫のパソコンであのサイトを開いた。そこでTisaの名前を見つけた。絶対に椿が千紗を巻き込んだのだとわかったが、椿には会わないと決めていたから、相馬に何が起きているかを聞こうとして、連絡をとったのだということだった。
「なんで俺から離れようと思ったんだよ……」
志岐をソファに座らせ、椿は正面に立っている。志岐が椿から手を離さず、ずっと椿のシャツを握りしめているからだ。椿も志岐から離れたくなかった。
「言いたく、なかったっ、俺が、したこと……、それに、いっぱい、迷惑かけて……一緒にいたら、椿にも、社長にも、もっと迷惑かけるって、思ったから……っ」
しゃくり上げる志岐をあやすように、また抱き締めて背中を擦る。
「志岐はわかってない」
「な、何がだよ……っ」
椿の腰あたりに腕を回してぎゅっと抱きつく志岐が、鼻水を啜る。
絶対服に鼻水ついてるな。
いつも、泣くときでも綺麗に泣く志岐の、そんな姿に思わず小さく笑ってしまう。すると志岐は、不満そうな顔をした。
「なんで笑ってんだよっ、椿なんか、大嫌いだ」
「いいよ。俺のこと嫌いでもいい。でもな志岐、志岐を好きな人は、いっぱいいるんだよ」
志岐に伝えたかった言葉を、志岐を抱きしめながら伝える。
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