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第七章 一

 志岐と再会した翌日、椿は電話をしてから志岐を事務所に連れて行った。おずおずと皆の前に出て行った志岐は、深く深く頭を下げ、勝手なことをしたと謝罪した。  社長は志岐に優しく微笑んで「あんまり心配かけさせないで。僕も若くないんだから寿命が縮まるよ」なんて言った。  志岐は、また少し泣いた。  飯塚は「愛されてるねえ、志岐」とからかいながらも、志岐を見つめる目を、普段見せたことがないくらい柔らかく細めていた。 「千紗さんに報告してもいいですか?」  少し落ち着いた頃、椿は社長に尋ねた。志岐はびくりと顔を上げた。 「板崎さんは協力してくれたし、天音の家族だ。今も心配しているだろうし、教えてあげた方がいいと思う。……天音、どうだい?」  社長に尋ねられた志岐は、ソファに座って膝に置いていた手をぎゅっと握った。数秒、俯いて何かを迷っているように見えた。 「お、俺が、連絡してもいいですか?」  顔を上げた志岐は、社長に言った。視線は、社長の次に椿を捉える。  志岐も、前に進もうとしているのだとわかった。  千紗に会うのは、志岐にとって何よりも勇気のいることだろうに。乗り越えようとしている。 「一緒に電話しよう」  椿がそう言うと、志岐は少し安心したように息を吐いた。  皆が見守る中では電話をかけにくいだろうからと、椿は志岐と別室に移動した。普段資料室として使っている部屋である。志岐は入ったことがないだろう。ドアを閉めると、外の音はほとんど聞こえてこない。小さな窓が一つだけあって、そこから一筋の光が差していた。初夏に近づく昼間の日差しはそれだけでも十分明るく、電気はつけなかった。  志岐は携帯を握り締めて突っ立っている。丸椅子が二つだけ置いてあるのでそれに座るよう促すと、ぎこちない動作で腰掛けた。  椿も志岐に向かい合うように丸椅子を移動させ、腰掛ける。 「志岐、大丈夫か?」 「ん……」 「不安だったら、俺がかけるよ? 俺が千紗さんに事情を話すから、大丈夫そうなら電話に出ればいいよ」  乗り越えることは、いつか必要かもしれない。でも今、無理をして乗り越えることはしなくていいと思う。ゆっくりゆっくりと、心の傷を癒していけば良いと思うのだ。  ところが、志岐は首を振る。 「大丈夫。でも椿、手を握ってて」 「わかった」  白く細い微かに震える手を、壊れ物のようにそっと握った。志岐は、そんな椿の手をぎゅっと握り返した。そしてクスっと笑う。 「不思議だ。椿にこうしててもらえると、勇気が湧いてくる」  その笑顔が、可愛くて。そんなことを考えている場合ではないとわかってはいるのだが、顔が熱を持つのを止めることはできなかった。  そんな椿には気が付かずに、志岐は手を繋いだまま、千紗に電話をかける。繋いだ手にじわりと汗が滲み、志岐の緊張を椿に伝えていた。  千紗が電話に出るまでの時間。それはほんの数コールのわずかな時間であったが、とてつもなく長く感じられた。 「あ、の、俺、」  志岐が小さく、声を発する。千紗が電話に出たようだ。上手く声が出ないようで、志岐はしばらく声もなく唇を震わせる。 「そ、うん……千紗?」  やっと出た声は、ぎこちなく彼女の名前を呼ぶ。志岐は繰り返す。千紗、千紗、と。その名前を呼べること自体が、喜びであるかのように。 「うん……。ごめん、ごめんね」  千紗と話すうち、志岐の手の力が少しずつ緩んでいくのがわかった。 「そ、そんな、千紗が悪いことなんて、絶対ない。絶対……! 千紗、泣かないで……っ」  椿と話していたときには気丈に振舞っていた千紗も、電話の向こうで泣いているようだ。  いいと思った。泣いて。昔志岐にぶつけることができなかった気持ちを、今ここで吐き出してしまえばいい。大丈夫だと思うから。今の志岐は、きちんと受け止められると思うから。 「うん、俺が、俺の方が、いっぱい、ごめんね……っ」  いつもより幼く感じる口調。千紗と話し、中学、高校時代の志岐が顔を出しているかのよう。閉じ込め姿を消していた志岐が、志岐の中に帰ってきたようだと思った。 「千紗に、俺も会いたいよ……ほんとは、ずっと、ずっと会いたかった……っ」  二人は、きっともうすぐ会える。わだかまりがまったくないわけではないだろう。しかしお互いを思う気持ちが大き過ぎる二人だから、絶対大丈夫。  きっと笑顔で再会できると、椿は確信していた。 「え? ……え」  志岐の言葉が急に詰まり、椿は首を傾げた。志岐の顔を覗き込むと、その顔がみるみる赤く染まっていく。椿の手を握る力が完全に緩み、離される。 「志岐?」 「千紗、うん、代わる……代わるけど、ほんと、それ気にしないで。うん……うん」  代わるって?  保留ボタンを押した志岐が、携帯を椿に差し出す。それを受け取ると、志岐は立ち上がった。 「え? どこ行くんだよ?」 「椿の馬鹿。嫌いだからな」  そう言って部屋を出て行ってしまう。  ……また嫌いって言われた。  一体何があったのか不思議に思いながらも、そして再び嫌いだと言われて落ち込みつつ、椿は保留を解除して電話に出る。 「すみません。お待たせしました」 『椿さん? 本当にいろいろありがとうございました。あめとやっと話すことができました。椿さんのおかげですね』 「俺は何も……こちらこそ、志岐を見つけられたのは千紗さんのおかげです。ありがとうございました」  心地よい声。やはりこの子の声が好きだなあと思った。志岐がいなくなったときには余裕がなくて感じられなくなっていたが、今改めて聞いて、そう思った。 「俺は、あなたの歌のファンでした。だから、俺もあなたの歌をまた聴けて、いちファンとしてもとても嬉しかったです」  椿がそう言うと、千紗はクスっと笑った。 『そんなこと、考えていなかったくせに。あめのことしか考えていなかったでしょう?』 「……すみません」  鈴のような澄んでいる彼女の声に、以前話したときのような硬さはない。志岐と話せて、千紗もまた、何か振り解けたのだろうと思った。 「あ、そういえばさっき志岐になんて言ったんです? なんか出てっちゃったんですけど……」 『ふふ、椿さんに抱きしめてもらったの? って』 「へ?」 『椿さん言ったじゃないですか。再会して、あめをただ抱きしめたいって』 「ま、まさかそれを志岐に……?」 『だって椿さん、あめを前にしたら絶対言うのに時間がかかりそうなんですもの』 「言うって何を……」 『あめのことが、好きって』  そこまで言っただろうかと、椿は動揺する。「抱きしめたい」とか言った時点でそういうことになるのか? いやいや、そんなことないだろう! 「椿さん、あんな歌詞を書いておいて誤魔化せると思いますか? 気づきますよ、誰だって。私はあめに、事実を伝えただけですよ? 『抱きしめたい』って言ってたって。あの歌詞は、ほとんど椿さんが考えたものだって」  顔から火が出るとは、まさにこのこと。 「千紗さん……!」 『余計なことをしたかもしれません。ごめんなさい。でも、あなたがあめのことを大切に思ってくださっているのがわかっているから、それを伝えてほしいんです』  千紗がそう言ってくれることは嬉しい。しかし、それは彼女の本心だろうかと困惑した。大切な家族のことを好きだとか言い出す男。……どう考えても受け入れてもらえるとは思えない。 「俺が志岐のそばにいて、いいんですか?」 『私が嫌って言ったら、離れるんですか?』 「いや……、できない。したくないですけど」  正直に答えると、千紗が笑う気配がした。 『私の言葉なんかで揺るがない思いがありますよね。あめのことをわかってくれている、大切に思ってくれている、強い思いを持つあなたに、あめのそばにいてほしい。そう思ったんです』  自分はその言葉に、応えることができるだろうかと考える。いや、できるだろうかじゃない。応えなければならない。 「ありがとうございます。あたって砕けろですね。志岐に、ぶつかってみます」 『あたって砕けちゃうんですか?』  と、また千紗は笑った。  今度三人で会うことを約束して、電話を切った。

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