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第七章 二

 ◇  志岐はアパートを解約してしまっているため、自然としばらくは椿の家で暮らすことになっていた。  一緒に帰ってきたのだが、志岐は帰り道もずっと黙っていた。むすっとしていて、どうやらまだ怒っているらしいとわかる。 「しーき、何をそんなに怒ってるんだよ?」  鍵を開けて椿より先に部屋に入っていく志岐の背中に声をかける。リビングで椿が追いつくと、志岐は振り返る。しかしその目は椿を睨んでくる。 「……千紗に変なこと言った」 「あー、うん。俺にとっては変なことじゃないけど」 「椿さあ、前にも言ったじゃん。俺はゲイなんだって。そういう勘違いさせるようなこと言うなって。忘れたわけ?」 「覚えてるけど」 「覚えててそういうこと言うんだ? そういうとこ、ほんと嫌い」  そう言って志岐は、奥に引っ込んでしまう。  どうしてだろう、再会してから「嫌い」とばかり言われている。今のはうんざりした様な言い方だった。本当に嫌われてしまったのだろうか。昨日は、そんな様子はなかったはずだ。「嫌い」とは言いつつも、あの反応は再会したことを喜んでいたと思う。ということは、やっぱり千紗に余計なこと言ったのが駄目だったのか、と考える。 「志岐」 「もう寝たい。俺ソファでいいから」 「いや、ベッドで寝ろよ。俺まだ寝ないからさ」 「じゃあそうする」  志岐は寝室に行ってしまい、椿はリビングに一人残される。  昨日はゆっくり話せなかったから、今日はゆっくり話したかったのに。  椿は一人コーヒーを淹れた。ソファに腰掛けて溜息を吐く。脱力して、だらしなく背もたれに寄りかかった。  部屋は静かだった。せっかく志岐が帰ってきたのに。  また関係性を築きなおさなければならないのだろうか。椿は先程の取り付く島もない志岐の態度を思い出し、志岐と再会できた喜びで膨らんでいた心が萎んでいくのを感じた。  感じて、これでは駄目だと自分を奮い立たせるために起き上がる。  諦めてどうする。千紗が言ってくれたことを思い出せ。志岐がいないときに散々考えたことを思い出せ。今更少し嫌われたくらいで、怖気づいてどうする。あんなに熱烈な告白をした志岐が、自分をそんなに簡単に嫌いになるはずがない。そうだ。あいつが言ったんだ。確かに。俺を好きになったと。幸せになったと。  図々しくていいと思った。あの言葉は確かに伝えられたんだから。弱気になるなと鼓舞する。  志岐はまだ自分を好きでいてくれていると思い込んでぶつかれ。それでやっぱり嫌いになったと言われたら、また好きになってもらえるように努力すればいい。  ──俺は志岐が、好きなんだから。  自分に言い聞かせ、椿は寝室のドアを開ける。部屋は暗かったが、布団を頭からかぶっている志岐の身体がぴくりと動くのが見えたから、まだ起きているとわかった。  顔がはっきり見えると余計緊張しそうだから、電気は付けなかった。 「志岐、起きてるんだろ? 今日くらい、やっぱり話しよう?」  志岐は答えない。狸寝入りを決め込んだようだ。  そんな志岐に構わず、椿はベッドの端に腰を降ろした。ギシッと軋むベッドに、志岐が身体をぎゅっと縮こませたのがわかった。 「志岐にさ、昨日伝え忘れたことがあるんだ。昨日俺は、志岐は皆に愛されてるって言っただろ? あれには、俺も含まれるから」  そこで、一旦言葉を切る。これを言ったらもう戻れないから、やはり少し躊躇う。  そっと、志岐の丸まった背中に手を伸ばした。  うるさいくらい鳴り響く自分の心臓の音を感じながら、椿は言葉にする。 「俺は、志岐天音を愛しています」  とうとう、言ってしまった。 「あの歌の歌詞も、千紗さんに志岐を抱きしめたいって言ったことも、全部俺の本当の気持ち。勘違いさせる? 勘違いじゃないよ。俺は志岐が好きで、言ったんだ。何にも勘違いなんかじゃない」  志岐から反応は何もない。息を潜めているのはわかる。 「志岐が、好き」  椿がもう一度はっきりと言ったとき、志岐が急に起き上がった。かぶっていたタオルケットがベッドの下に落ちる。 「黙れ、椿」  低い声。至近距離で椿を見つめる瞳も、言葉を絞り出す口唇も、震えている。 「勘違いしてんのはお前だ。何言ってんの? 俺が好き? 俺や桜田、相馬といた所為で影響受けてるだけだ。何流されてんだよ、馬鹿じゃねえの。二十五にもなってそういう勘違いする?」 「勘違いじゃない」 「勘違いだよ! お前が俺を好きになるはずないだろ。それかあれか。俺がAmeだって知ったから? だからじゃねえの?」  ああ違うかと、志岐は笑った。 「父親に犯されて全部駄目にしたのに、男を嫌いになるどころかゲイになった俺が可哀想だった? 同情したんだろ。同情を愛情と勘違いか。ああ、あるあるそういうこと。お前優しいもんな」 「志岐」  どうして話を聞いてくれない? どうして真っ向から否定するんだ。  椿は志岐の言葉を受け入れるわけにはいかず否定の声を上げようとするが、志岐は遮ってしまう。 「ほんと残念な奴。そういうことしてるからいろいろ遠回りするんじゃん? 椿は顔だっていいんだしさ、その気になれば彼女だってすぐできんじゃん。変な影響受けてないでさっさと恋人つくって結婚でもすれば? お前はいい父親になりそう」 「志岐、ちょっと話し聞け」 「聞きたくない。馬鹿な話なんか、聞きたくないんだよ」 「俺は志岐が好きだ。同情なんかじゃない」  そう言うと、志岐は深い溜息を吐いた。 「ああそう。じゃあそういうことにしとくよ。ありがと。でも俺は椿のこと好きじゃないから。……嫌い、だから」 「あの、キスは?」  志岐が、はっと目を見開く。 「あのキスの意味、聞いてない」  海でのキス。その意味を、椿は志岐から直接きいていない。 「忘れて」 「そうじゃないだろ。意味を聞いてんだ」 「意味なんてない。何にもない」  タオルケットを拾い上げてまた布団に潜ってしまう志岐に、椿も溜息を吐く。  そっちがそうくるなら、こちらにも考えがある。

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