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第七章 四
◇
千紗と会うことになったのは、それから二週間後のことだった。当初は椿と志岐と千紗だけでのんびりと会う予定だったのだが、先日、急に千紗から連絡があり、時間も場所も変更になった。
葉山社長と、それから、板崎洋に予定を合わせたからだ。
三人での食事を楽しみにしているようだった千紗から、深刻な様子で椿の携帯に電話があった。なぜ志岐ではなく自分なのかと、訝しみながらも電話に出ると、千紗は思わぬことを言った。
板崎洋が、志岐に会いたがっていると。
「それは……どうなんでしょう。志岐にはあまりにも……」
言葉を濁したのは、千紗にとっては実の父親だからだ。おこなったことがいくら倫理に反するようなことでも、父親のことを椿から悪く言われたりすのは、千紗も嫌だろうと思ったから。
「はい……。あまりにも無神経な話です。あんな男に、会わせるなんて」
憎しみを滲ませる言葉。しかし自分に話すからには、千紗は板崎洋と志岐に、会ってほしいと思っているんじゃないだろうかと椿は感じた。
「千紗さんは会ってほしいと思ってるんですね?」
志岐がまだ風呂に入っていることを確認して、椿はリビングに戻って千紗に訊ねた。
『いえ……私は、会ってほしくありません。あめが会うなら、まずは母に会うべきだと思っています』
志岐は、今まで何をしていたのか母親にも知られてしまったことをわかっているだろうに、連絡をとろうとしない。椿はそれとなく促してみるのだが、「椿だって家族と連絡とってないじゃん」なんて言われてしまって言い返せなかった。確かに、椿も家を飛び出してから一度も実家に帰っていなかったからだ。
『母は、父のことがあるからあめに会いたいとは言えないんです。父と再婚をした自分を責めているから。でも本当はとても会いたがっています。父と話して、あめの中で何か心の整理ができたら、母とも話せるのではないかと思ったんです。……でも、あめが傷つくことには変わりはない。私自身、会ってほしいのかほしくないのか、よくわからないんです……』
板崎洋は、なぜ今志岐に会いたいなどと言ってきたのだろうと考える。いい機会だとでも思ったのだろうか。時間が経ち、罪の意識も薄れてきたとでもいうのだろうか。
「タイミングを見て、志岐と話してみます。どうするか話し合って、千紗さんに連絡しますね」
『本当にすみません……。よろしくお願いします』
電話を切って、一つ溜息を吐いたときだった。
「電話、千紗?」
いつのまにか、志岐が風呂から出てきていた。
「あー、うん、そう。千紗さんから」
「なんだって?」
「うーんと……」
志岐は髪を拭きながら、冷蔵庫の中から麦茶を取り出した。コップに注いで一口飲み、椿が続きを話しだそうとしないことを不思議に思ったのだろう、顔を覗き込んできた。
「どうしたの? 椿?」
「志岐……あー、風呂気持ち良かった?」
「は?」
我ながら、なんて話を逸らすのが下手なんだろうと呆れる。案の定、志岐は椿が千紗と話した内容を隠したいと思っているのを感じ取ったようで、表情を曇らせた。
「いいよ。別に千紗と椿が仲良くしたって。千紗が俺じゃなくて椿に連絡してきたんだって構わないし」
「お前……、ヤキモチ焼くのそっちかよ」
千紗さんじゃなくて俺にヤキモチね。いいですとも。志岐が千紗さんを大好きなことはわかりきってますからね。
椿は少しだけ千紗に嫉妬する。
「早く風呂入ってくれば?」
「お、おう」
一先ずやり過ごせたかと、椿は風呂に向かうことにする。しかしそのとき背後の机にコップが置かれる音がして、背中に温もりを感じた。
「し、志岐?」
そっと背中から胸に腕が回される。椿の心臓は、急激に血液を送り出す動きを早める。
「話したくなったら話して」
懇願するように、椿の背中に額を摺り寄せる志岐。回された腕は、柔らかく椿を抱きしめたままだ。
ばくばくと早い鼓動を刻んでいた椿の心臓が、落ち着きを取り戻していく。
……駄目だな、俺。
志岐を守りたい。椿はそう思っている。志岐もきっと、椿を守りたいって思っているのだろう。でも少し前とは違うのだと、椿は自分に言い聞かせる。一緒に歩んでいくと決めたんだから。何も話さないで、痛みを与えないように、傷つけないように守るのは違う。一緒に傷ついて、一緒に乗り越えて行きたいんだ。
「風呂入ってくる。出たら、ちゃんと話そう」
そう言って、振り返って志岐を一度抱きしめる。椿の腕の中で、緊張していたらしい志岐の身体の力が抜けたのがわかった。
◇
──志岐は、板崎洋と会うと言った。すべての元凶であるその男に。
再会してから泣いてばかりだった志岐は、今度は泣かなかった。立ち向かう決意をした、強い眼差しを椿に見せた。
二人で社長にそれを言うと、社長も立ち会うと言ってくれた。
当日は雨だった。
窓の外で静かに降り続く雨を見ながら、昨日、梅雨入りしたとニュースで言っていたのを思い出した。
社長行きつけの喫茶店は、奥が個室のように区切られている。社長はたまに「怖いオトモダチ」(飯塚曰く)と会っているから、そのときにも利用しているようだった。店長らしき人に、「今日はずいぶん可愛いお連れ様ですね」と言われていた。そこで、椿たちは千紗と板崎洋が来るのを待っていた。
志岐を椿と社長で挟む形になってソファに座った。
「志岐、緊張してる? 大丈夫か?」
「……そりゃ緊張するよ。千紗と会うのは本当に久しぶりだし、あの人とも……」
志岐が父親に無理にセックスさせられていたことは社長には話していなかったが、社長は何か感じていたようだった。曇る志岐の表情を見て、静かな声を出した。
「天音、椿君、僕が今日着いて来たのは、板崎氏に言わなくてはならないことがあったからなんだ」
「あの人に、言うこと……?」
志岐が、不思議そうな顔をして聞き返す。社長はそれに、穏やかな笑みを返した。
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