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第七章 五

「天音は、これからもこの事務所にいてくれるかい?」 「も、もちろんです! ……俺に、まだ仕事があるなら、ですけど。でも、雑用でもなんでもしますから……! 椿と一緒に置いてください!」  勢いよく頭を下げる志岐に、椿は思わず笑ってしまう。志岐に軽く睨まれる。 「なんで笑うんだよ!」 「いや、雑用する志岐とか想像できなくて……ぷっ、コーヒーとか淹れたら漫画みたいにカップめっちゃ割りそう」 「帰ったら覚えてろよ、椿」 「まったく椿君は……」  社長にまで呆れた声を出され、椿は肩を竦めて黙った。 「ありがとう、天音。僕は天音に、うちのタレントとしてずっといてほしいと思ってるよ。以前とは違う仕事をしてほしいと思ってる。君は、本当にやりたいことを僕に話してくれたことがないね?」  志岐は自嘲する。 「どうして、そんなに俺の良いようにやらせてくれるんですか。俺は社長の言う通り、嘘ばかりついて本当のことなんて何も話さなかったのに。それどころか、迷惑ばかりかけているのに」 「これからだよ、天音。これから本当のことを話してくれればいい。いや、うーん、僕はね、本当のことばかりを話してくれなくてもいいと思ってるよ」   そこで、社長は椿に視線を向ける。 「椿君には、恋人なんだから隠し事せずにちゃんと本音で話した方がいいと思うけどね」 「こ、恋人って!」  確かに付き合い始めたのだが、第三者にそう言われると、むず痒くて仕方がなくなる。椿の焦る様子に、志岐が不満そうな顔をした。 「違うのかよ?」 「いえ、違くアリマセンガ」 「……帰ったら恋人らしいことしてやろうか?」 「は? え、何、恋人らしいことって?」  椿が真面目に聞き返すと、志岐が大きく溜息を吐いた。社長はクスクスと笑っている。 「親代わりとしては、二人がエッチなことするのは複雑な気分だなあ」 「はあぁあ!?」 「椿……、俺とそういうことしようってまったく考えないわけ?」  志岐のじっとりした目に焦る椿を見て、社長はますます楽しそうに笑った。 「ごめん、話が逸れちゃったね。本当のことを話さなくてもいいっていうのはね、本当のことばかりが、正しいとは思わないからだよ」 「どういうことですか……?」  志岐の言葉を受け、社長は少し考えるように顎に手をやって話す。 「全部包み隠さず話さなきゃって、気負ってほしくないんだ。一人でも話せる人がいればいい。僕には、必要なときに頼ってくれたらって思うんだ。それか、椿君には話せないようなときに、頼ってくれたらいい。もちろん、仕事に関しては頼まれなくても全力でサポートするよ」 「社長……」 「皆そうだけどね、天音も含めて、皆僕の夢のかけらなんだよ。僕と彩乃の夢。そして子どものようでもある。だから好きなことをやって、目一杯輝いていてほしいんだよ」  優しい瞳が、今は子どものようにキラキラしている。自分はこの人の元で、このキラキラした瞳を持つ人の元で、仕事がしたいと思って飛び込んできたんだ。椿はそれを、再認識する。 「椿君も、タレント業をやりたくなったらいつでも言ってね」  いたずらっぽく笑った社長に、椿も志岐も笑ってしまう。 「椿、桜田相手にAVやれば?」 「お前、恋人にそういうこと言う?」 「言うね。椿はもっと性欲付けてこい」 「なんちゅうことを……!」  椿と志岐のやりとりに、社長は声を上げて笑う。ここに来て、こんなに和むとは思わなかった。社長は、心を強張らせる志岐が、しっかり千紗と板崎洋と話せるように心を解いてくれたのかもしれない。今の自分にはなかなかできない、しかし、できるようになりたいことだと思った。  話が逸れてしまって聞けなかったが、社長が板崎洋に「言わなくてはならないこと」とはなんだろう。  場が和んだとき、店長が顔を出した。「お見えになりました」と。  足音が聞こえてきた。綺麗に磨かれた床を歩く音。傘を付く音。コツコツとした硬い足音は、板崎洋のものだろう。それが近づいて来るのを感じ、隣の志岐のピリピリとした緊張が伝わってきた。  先を歩いてきたのは、千紗だった。その後ろから、テレビや雑誌で見たことのある顔が現れる。テレビで見ているととても五十代には見えなかったが、こうして目の前にすると、椿には目尻に皺の刻まれた歳相応の男に見えた。 「千紗……っ」  志岐は立ち上がる。椿の前を通って、千紗に駆け寄った。視線は千紗だけを捉えている。  昨日「千紗に会ったときどんな顔をすればいいのかわからない」なんて言っていた志岐は、千紗の姿を一目見ただけで表情が変わった。  会いたかったんだ。大好きなんだ。大切なんだ──その想いを、ただ純粋に浮かべる表情に。 「あめ、あめ!」  千紗が傘を落とす。空いた手を目一杯広げて志岐に伸ばすと、志岐は千紗の胸に飛び込み力強く抱きしめた。 「会いたかった……っ」  志岐はそれだけを繰り返す。千紗も同じだった。 「あめに、ずっと会いたくて……っ、でも探す勇気がなくて……!」 「俺も、同じ。俺も、勇気がなくて」  志岐が、千紗の身体を少し離し、その顔を見る。嬉しそうに、愛おしそうに。 「千紗の歌、聴いたよ」 「私もあめの歌、聴いた」 「大好きだよ。千紗の歌が聴きたくて、ずっと生きてた。ずっとずっと……っ」  歌が聴きたくて生きていた。  それは、聞く人によっては「何を大袈裟な」と思うものかもしれない。でも志岐にとって千紗の歌は、志岐をここに留まらせたものだ。辛い気持ちのままに消えてしまおうとした志岐を留まらせ、そして連れ戻したもの。  だからその言葉はすべて本物だった。大袈裟じゃない、志岐のありのままの気持ちだと思った。 「私の歌は……」 「千紗の歌があったから、俺はここにいるよ」 「でも私の歌がなかったら、あめは……」 「千紗の歌があったから、椿にも会えたんだ。俺の幸せの、始まり」 「幸せ……?」  千紗は聞き返す。椿はそんな千紗が、その言葉の意味を知らない子どものようだと思った。それほど、志岐が「幸せ」という言葉を使うことが、結びつかなかったのだろう。 「うん。幸せ」  志岐が、微笑む。濡れた瞳が緩やかに弧を描いて細められ、一筋の涙が頬を伝う。綺麗な笑顔だった。椿が今まで見た笑顔の中で、きっと一番の。 「幸せ、なの?」 「うん。幸せ。千紗の歌を聴くことができて、千紗にもう一度会えて、こうして触れ合えて……。椿にも、出会わせてくれて。俺は今、すごく幸せだよ」 「よかった……」  千紗は、志岐の腕の中で涙を流した。よかった、よかったと繰り返しながら。  ようやく身体を離し、幼い姉弟のように手を繋ぐ二人が顔を見合わせて笑ったのを見て、社長が頭を下げた。椿も同じように頭を下げる。板崎洋の足元を捉えた。

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