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第七章 六

「志岐天音の所属事務所、葉山プロモーション社長、葉山寛です」 「志岐のマネージャーをしています、椿由人です」  社長が板崎洋に名刺を差し出したのを見て、椿も手渡した。  板崎洋はグレースーツに紺色のネクタイをしていた。装飾品はない。派手さを感じないその格好が、余計にテレビで見るよりも老けて見せるのだろう。  名刺を手渡すために椿が板崎洋に近づくのを見て、志岐が顔を強張らせたのがわかった。志岐にとってこの男は自分を犯した男で、そして俺は、志岐にとって守りの対象であるからだろうと思った。  しかし、それは椿も同じだった。椿もまた、志岐を守りたいと思っている。  板崎洋を睨むように視線を合わせる。その目に自分は、どのように写っているのだろうと椿は考える。千紗が自分のことを話しているとは思わなかったが。 「板崎洋です。千紗の父親で、天音の……Ameのプロデュースをしていました」  志岐の父親とは言わなかった。頭を下げた板崎洋をなおも睨む椿の横に、志岐が立った。 「お久しぶりです」  先ほど、千紗を呼んだ声とは正反対の、冷たい声だった。  その声に、板崎洋は顔を上げた。志岐はその顔を見ても、怯まなかった。 「天音……」  板崎洋はそう呟いたあと、苦しそうにまた頭を下げた。  千紗と並んで座る板崎洋と、向かい合って座る。最初に口を開いたのは、社長だった。 「天音に、会いたいとおっしゃったとか」  板崎洋は社長の方を見た。 「はい……。一度事務所に連絡をいただいたときは、失礼致しました。私のところまで話がくることなく、上の人間がお返事してしまったのです」 「……あなたに話を通すわけないわ。事務所の中には、あのときお父さんがあめに何をしていたのか、薄々気づいてる人もいたはずだもの」  吐き捨てるように、千紗は言った。 「僕は、あなたが天音に何をしたのだとかは、聞いていません。Ameについては、そういう戦略も確かにあるのだと、同じ芸能事務所を経営するものとしては思います」  しかし、と社長は続ける。 「それは二人がその道を選んだら、です。僕はよく甘いと言われますが、それでもやはり、見る者聴く者だけではなく、どれだけ金になるかでもなく、本人が幸せに夢見ていることが、この道の一番あるべき姿だと思っています」  言い切った社長を、世間の人は笑うだろうか。だから甘いのだと。だから貶められるのだと、嘲笑うだろうか。 「そう……そうですね。それがきっと、正しいのです。天音がAVに出ていたわけは、千紗に聞きました。あなたたちはむしろ、天音にあのようなことをやらせたくはなかったのだと……」  板崎洋は、自嘲するように笑った。 「私は二人にとって、プロデューサーとしても失格。父親としても失格でした」  それから、志岐を見た。ひくりと、志岐が息を飲むのがわかった。 「天音を、愛してしまいました」  “愛してしまった”  それは懺悔の言葉。 「息子としてではなく……、千紗より、幼かったこの子を……、私は……っ」  幼かった志岐。天真爛漫だったと、千紗は言った。今だって、擦れたところがあるかと思えば、屈託なく笑ったりする。それは、きっと本来の志岐。そんな志岐を……。  椿は口唇を噛む。そうしていないと、今にも喚き散らしてしまいそうで。罵ってしまいそうで。  志岐の顔色が悪い。さっき温かく千紗を抱きしめた手が、今はテーブルの下で震えているのが見えた。  目の前の男が顔を歪めたのは、そのときだった。千紗が、手を上げたのだ。口唇を震わせる。 「最低よ! 人としてどうかしてるわ! 愛してる!? そんなことを言うためにあめに会いたいと言ったの!? そんな言葉、言ってどうするのよ! あなたがしなければならないのはっ、あめにひたすら謝り続けることよ! 私も、同じ……!」  千紗の叫びは、己を責める言葉でもあった。父親のしたこと、自分のしたことを背負う彼女は、なんて大きな痛みを抱えているんだろうと思った。志岐が言った「幸せ」という言葉。その言葉が灯した優しく暖かい明かりが、この男の言葉一つで、消えてしまったかのようだった。 「千紗さん……」  思わず名前を呼んだ椿にまで、千紗は頭を下げる。 「ごめんなさい! この男とあめを会わせるなんて間違ってました。あめを、よりにもよって、愛してるなんて……っ、あなたの、前で……!」 「それは、そんな、俺のことは……っ、俺のことまで背負わないでください!」  思わず大声を出した椿に、千紗が驚いて顔を上げる。 「俺のことまで、あなたが背負わなくていいんですよ……大丈夫です。俺は事情を、聞いていましたし。大丈夫です。な、志岐?」 「あ……」  志岐は、言葉なく口唇を動かす。  板崎洋に言われた“愛してしまった”という言葉が、志岐の言葉を奪ってしまったようだった。  冷静になれと、椿は自分に言い聞かす。  自分が熱くなればなるほど、志岐と千紗は痛みを背負うのだ。 「志岐、大丈夫、だよな?」  お前は千紗さんを守りたかった。それは、今もだろ? たった一人の特別な女の子なんだろ? お前が言葉を失くしてどうする。同じことは、繰り返さないんだろ?  そんな思いを込めて、椿は志岐を見つめる。 「椿……」  志岐が小さく名前を呼んだ。 「俺、は、俺はあなたが、怖かった……」  志岐は、長年言えなかった思いを千紗と板崎洋に伝える決心をしてここに来た。  椿は志岐が立ち向かえるように、支えることしかできない。自分ができるのは、ここまでだと思いながら、志岐の手を握る。  こんなことしか、できない。それでも志岐は言ってくれたから。俺がいることで、勇気が湧いてくると。 「あなたにされたことが怖かった。それを母さんと千紗に知られることが怖かった。母さんに知られて、せっかくできた家族がいなくなって、悲しかった。なのに……」  志岐が、椿を見る。ぎゅっと、手に力が入る。 「俺は、今度は、自分からあなたを誘った……」  千紗が首を振る。そうさせてしまったのは自分なのだと、彼女は自分を責めているから。 「千紗の所為じゃない……! 俺は、千紗に嫌われることが怖くて、千紗の歌を失うのが怖くて! そんな自分勝手な理由でっ、千紗のためを思うならあんなこと、すべきじゃなかったのに……! 俺は、あのとき自分のことしか考えてなかった!」 「あめ! 違うわ!」 「千紗、そうなんだよ。それが事実だよ。千紗と一緒にAmeをできなくなることだけが俺の恐怖になってた。それを消すために、俺は楽な道を選んだんだ……! 簡単に自分を売ることを! 言葉で伝えるより、楽な方法を!」  自分の思いを言葉にすることが苦手な志岐。きっと、昔からそうだったのだろう。身体を差し出す方が、志岐にとって簡単だったのだろう。  それで負う傷の深さを、見ないようにして。 「ごめんなさい……。今なら、どうすればよかったのか、わかる。こうして、話し合えばよかったんだ。失くすことばかりを怖がるんじゃなくて、こうやって……」  志岐は、椿の手を離した。その手を、板崎洋に差し出す。 「あなたのこと、今も怖い。でも、俺をAmeにしてくれたこと、それは、感謝しています。それで、こんな俺にも助けることができた人がいるから。その人の救いになれたのは、Ameっていう存在があったから、だから」  俺はAmeに救われた。それが、志岐を救うことにもなった? ……それだったら、いいな。志岐にとって少しでも優しい思い出になったら、その一つの理由に自分がなれていたらいいなと、椿は思う。  板崎洋は、ゆっくりと、志岐の手を握った。言葉なく、ただ頭を深く下げた。  それから志岐は、また優しい眼差しを千紗に向ける。 「千紗は俺の、大切な家族だよ。今までも、これからもずっと」 「あめ……」 「千紗、忘れないで。俺は幸せだよ。千紗にも、幸せでいてほしい……あなたにも」  板崎洋にも、志岐は言葉を紡ぐ。 「私を、許すのか……?」 「俺が自分で選んだことでもあるから……だから、もういいんです」  もういいと、志岐は繰り返した。板崎洋は、小さな声で謝り続けた。  千紗が自殺未遂をしたあと、二人がどんな言葉を交わし、別れたのかは知らない。しかしお互いに罪の意識を抱えた二人が、許し合うように謝ることはできなかったと思う。  この男もきっと、ずっと志岐に謝りたかったのではないだろうか。やっと、謝ることができたのだと思う。  時折嗚咽が混ざる声で謝り続ける姿を見て、椿はそう思った。 「板崎さん、私は天音に、歌を歌ってほしいと思ってます」  唐突に、社長が言った。 「もちろん、天音が了承すれば、ですが。私があなたに言っておきたかったのは、あなたが見つけ出したAme……志岐天音という歌手を、私の事務所で再デビューさせるということです」 「社長、でも」  志岐は戻ってきてからも、歌手として活動したいとは一言も言わなかった。本来なら、志岐にとって一番やりたいことであるはずなのに。 「歌うことにが躊躇いがあるかい? 迷いがあるかい? だったらそれを、そのまま歌えばいいよ。Ameは、そういう歌手だっただろう?」 「でもあれは、千紗が歌っていたんです。俺に、千紗のような表現力は……」  志岐は、戸惑うように千紗を見る。  千紗は微笑んでいた。 「あめ、忘れたの? 一緒に歌詞を考えたよね。一緒に、どんな想いを込めるか考えたよね。一緒に歌ってみたりしたよね。あのときの私の歌は、あめと一緒に作ったものよ」 「……俺にも、歌えるかな、千紗みたいに……人を、元気づけられるような歌……」 「もちろん。だってあめ歌は……」  千紗と椿は、顔を見合わせる。それを不思議そうに見る志岐。  そう。だって志岐の歌声は、“周囲を潤す雨の音”だもんな。 「天音を、よろしくお願いします……」  再び深く頭を下げた板崎洋を見る志岐の瞳には、もう恐怖の色はなかった。  

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