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第七章 七

 ◇ 「濡れたなあ。うへー、部屋の中もじとじとしてんなあ」  志岐と二人でマンションに帰って来た。雨はまだ降り続いていて、歩いたのは大した距離でもないのにいつのまにか全身しっとりと濡れていた。霧状の細かい雨だったからかもしれない。  タオルを志岐にも渡し、椿は玄関から浴室に直行する。湯船に栓をして湯を溜め始めた。  志岐は一人暮らしのときはシャワーしか使っていなかったらしいのだが、椿の家に来てから湯船に浸かるのが好きになったようだ。だから最近は必ず風呂を沸かす。一ヶ月して水道代とガス代があまりにも上がったらどうするか考えよう。  椿はそんなことを考えながら脱衣スペースに置いてある洗濯機に、濡れた衣服を放り入れる。 「志岐―? 着替えたら濡れたの持ってきてー。あ、それかこのまま先風呂入るか? 洗いながら湯貯めればいいだ……ろ」  志岐が上半身裸で濡れた服を持ってきて、椿は目のやり場に困って言葉まで詰まってしまった。  いやいや、俺の方がパンツ一枚なのだし、照れる必要はない。うんうん。平静に。ほら、よく見慣れた志岐の身体だし。 「し、志岐?」  椿が何とか自分に言い聞かせて平静を保とうとしていたのに、何を思ったのか、志岐は冷えた身体で椿に正面から抱きついてきた。冷たい、けれど滑らかな肌を感じる。 「椿……色々、ありがと」 「つ、着いてっただけだよ」 「今日だけじゃない。いっぱい、ありがとう」 「志岐、どした?」  志岐が平静時に正面から椿に礼を言うなんて珍しく、その様子が気になって胸の高鳴りは静まってきた。 「うん……どうしよ、俺ね、結構いっぱいいっぱいなんだ」 「へ? えっと、何?」 「もう……ごめん、気持ち悪いこと言っていい?」 「え、何?」 「……椿とヤりたくて仕方ない」  思い詰めたような声だった。  一瞬何を言われたのかわからなくて、椿は目をぱちくりさせた。  ヤりたい……ヤりたい……え、何を……って……え。 「ヤりたいって、えっとその……」 「えっち」  ですよね! と納得しつつも、なぜ帰って早々そんなことを言い出すのか、ちょっとわからない。ズボン越しに、志岐のものが膨らんでいるのがわかる。 「んと、志岐さ、今日いろいろあっただろ? 千紗さんに会ったし、板崎洋にも会ったし……気持ちが昂ってんだと思う」 「昂っちゃ駄目?」 「駄目じゃないけどさ……」  でも、と椿は思う。志岐、俺とヤりたいって言うけど。セックスしたいって、この前も言ってたけど。志岐にとってセックスは、辛いものだろ?   付き合ったからといって、無理にする必要はないと思っていた。そりゃあ、椿だって男だし、好きな子とセックスしたいと思う。でも、男に抱かれて震えていた志岐を知っている。自分を傷つけるために何度も男に犯されていた志岐を知っている。  気持ちの昂ぶりのままに身体を触れ合わせて、傷つけるのが嫌だった。 「あ」 「何? 椿」 「お前が俺を抱く?」 「は?」 「その方が怖くないんじゃね? うんうん。それだったらきっと怖くない」  そうだそうだ。その手があった。別に俺が志岐を抱くことばかりを考えなくてもいいじゃないか。志岐を傷つけずにセックスするにはこれが一番いいんじゃないか?  名案だというように晴れやかに話す椿に、志岐は溜息を吐いた。 「椿って、ときどきほんと頭悪いなあって思うよ」 「なんでそうなる!?」 「妙に人を気遣い過ぎるときある」  そう言いつつも、志岐は可笑しそうに笑う。 「俺がタチ? いいけどさ、ほんと、いや、可笑しい……っ」 「笑うな! 笑うことじゃねえだろ! 俺だって志岐とヤりたいけどさ、志岐が嫌なことはしたくねえんだから仕方ねえだろ!」  椿の言葉に、志岐が首を傾げる。 「嫌なことって……ああ、そういうことか」  納得したように頷いた志岐は、椿が考えていたことがわかったらしい。目を細めた。 「俺が前に、セックスなんか好きじゃないって言ったの覚えてたんだ? なんだよ、それでかあ。椿がほんとは俺とヤりたくないって思ってんだと思って、ここ数日悩んでたのに」 「え?」 「お前、キスだって軽く触れる程度だし、俺が着替えてると目逸らすしさあ」 「そりゃ、ベロチューすりゃその先に進みたくなるし、お前の裸は、その」  今も志岐が上半身裸なのが目に入って、顔が熱を持つのを感じる。ピンク色の突起も、目に入ってきたから。 「色っぽい、から」 「あはは」 「笑うなって!」 「だって、いや、ほんと椿なんでそんな……ってことは俺を抱きたいと思ったってことだろ? なのに自分が抱かれようとするなんてさ。……なんでそんなに優しいの?」  柔らかい声。それが引き金となり、お互い黙って見つめ合った。  少し緊張しながら、椿は言葉にする。 「怖くない? 嫌じゃない?」 「椿とするのに、嫌なわけない。初めて……初めて、好きな人とするのに」  じわりと胸に広がるものがある。じわりじわりと広がっていくもの……愛しさ。 「キスしていい?」  聞くと、志岐は微笑んで目を閉じた。そんな志岐に、椿も微かに笑って口唇を重ねる。下唇を食むようにすると、志岐が少し口唇を開いた。椿は促されるまま、志岐の口腔内に舌を進ませる。志岐の舌に触れた。受け入れるように絡ませてくれるその仕草が、椿を嬉しくさせた。きつく舌を吸うと、背中に伸ばされた腕に力が入る。それがまた愛しくて堪らなくて、何度も吸った。  ずっとこうしていたいと思うし、先に進みたいとも思う。もう少しもう少しと、何度も角度を変えてキスをする。志岐の方がやっぱり余裕があって、しつこく椿が口唇を重ねる間に、微かに笑うのがわかる。  その、志岐が笑う息遣いにも胸がいっぱいになる。 「なんか椿、可愛い」  息継ぎの合間に言われて、動きが止まる。  ……可愛いってなんか、地味にショックだ。 「あれ、嫌だった?」  志岐が可笑しそうに笑う。椿の背中に手を伸ばしたまま。 「ごめん、必死過ぎた」 「なんで謝んの。必死なの可愛くて嬉しかった」 「俺多分ずっと必死だよ。余裕ねえけど、いい? かっこ悪いよ」  かっこいいとか悪いとか気にしたことなかったけど、今日の自分はすごい醜態を晒すだろうと、椿は少し不安になる。キスだけでもこんなに経験の差があるのに、セックスなんて。だって志岐は、桜田みたいな人とこれまで何度もしてきてのだ。あの人、かっこいいし。上手いし。それと比べたら自分なんか、セックス覚えたてのガキみたいなものだと思う。 「かっこ悪いの、駄目? 俺が慣れてんのは、申し訳ないけど……椿が俺で慣れてくれたら、嬉しいよ」 「あー、なんか志岐がかっこ良く見える……」 「やった」  自分たちはこんなのでいいのかもしれない。色っぽい雰囲気とは無縁で、ケラケラ笑いながら肌を触れ合わせてもいいのかも。その方がきっと、自分たちらしい。桜田や相馬に見られたら呆れられそうだと思って、椿は笑ってしまう。 「一緒に風呂入る?」  そう尋ねると、志岐は少し考えてから答えた。 「ん……俺先入ってていい? しばらくしたら入ってきて」  そう言ってちゅっとキスを一つされ、志岐は躊躇うことなく椿の前で服を脱いで浴室に入っていった。  ……準備、してくれてんだよな、多分。  相馬にされて椿も中を洗った経験がある。一人でさせていいものなのかなと悶々と考える。でも、自分は相馬に凝視されながらやって死にそうなほどに屈辱と羞恥を感じたわけで。  落ち着くわけもなく、椿はとりあえず洗濯を済ませた。

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