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第七章 十
◇
「暑い……」
「水持ってきた……大丈夫か?」
志岐はベッドでうつ伏せになっている。
あの後すぐに風呂を出ればいいものを、湯船に浸かって長い間抱き合ったまま他愛のない話をしていたから、完全に湯あたりしてしまったのだ。
その上行為中に志岐の中には湯もずいぶん入ってしまったし、椿も中に出してしまったしで、志岐は体力を完全に使い切って倒れてしまった。
つーか中出しって……風呂でとか……ありえない。ほんと馬鹿。阿呆か。志岐を大切にしたいと思ってんのに、いきなり何やってんだよ。
椿は心の中で散々自分を罵倒していた。
「ごめん。ごめんな……。気持ちよくて止まんなかった……」
起き上がってコップに口を付けていた志岐は、軽く吹き出した。
「何だよ、何そんな落ち込んでんの?」
「反省してます……」
「も、ほんと何? おかしいなあ、椿は」
志岐は笑うけれど。椿の中で、志岐に再会したら目一杯甘やかすというのは心に固く決めていたことだったのだ。辛いことはこれからも志岐に降りかかるかもしれないけど、自分は志岐を甘やかしたいと。仕事はそういうわけには行かないが、友人として……恋人としては、甘やかしたいと思っていた。それがいきなり無理をさせてしまった。
ベッドの下で膝を抱えていると、志岐まで降りてくる。椿の隣に座った。
「俺わかんないよ。楽しかったじゃん。何反省してんの?」
「中出しした……」
「へ? いや別にそんくらいさ、出せばいいんだし? 後処理も手伝ってくれたじゃん。中出しなんかいつもされてたし、もっとなんかいろんなもん挿れられたりしてたし……こんなこと聞きたくないよな」
志岐は椿の頬にちゅっとキスをした。
「俺が何言っても椿は反省するんだろうし、もう言わないよ。でも俺は、余裕なく求めてもらえんの、嬉しかった。あとね……」
クスっと笑って、志岐は椿の耳元に唇を寄せた。
「俺の中に挿れてるときの椿、かっこ良かった。雄の顔してて」
「んな!?」
瞬時に顔が熱を持つのを感じる。そんな椿を面白そうに笑って、志岐はベッドに気怠げによじ登ってまた横になった。
「俺寝るよ。椿も反省終わったら一緒に寝よ」
「お、おう……」
しばらくして、志岐の寝息が聞こえてきた。顔を覗きこめば微かに笑みが浮かんでいて、それを見て椿も少し気持ちが浮上してきた。額に触れれば、一時的に上がっていた体温も下がったようでほっとした。
家事をしてから寝ようと思ったのだが、椿も身体に心地よい怠さがあったから、全部明日で良いかと潔く諦めて、志岐の隣に横になった。
志岐にからかうようではなく「かっこいい」と言われたのは、初めてだったかもしれない。こんなことで喜ぶの、子どもっぽいかなと思う。
でもやはり嬉しくて、椿も幸せな気持ちで眠りについた。
◇
「なんでお前が来るんだよ」
「そりゃあ俺と由人君の仲だからね」
「由人……なんで名前?」
「あめがいない間にいろいろあったんだよ、ふふふ」
聞き覚えのある声が聞こえて、椿は目を開けた。光が差し込む部屋の眩しさに眉を寄せる。
昨日帰ってきたのは夕方だったはずなのに、降り注ぐ日差しはどう考えても朝の明るいものだった。なぜ、平日の朝に自分はこんなにゆっくりとしているのだろう。
「仕事!」
椿が飛び起きると、寝室の入り口に立つ志岐と桜田がこちらを向いた。
あれ、なんで桜田? いやそんなことよりも仕事が!
「志岐、俺の携帯ある!? 事務所に電話しねえと!」
「椿、今日俺もお前も休みだろ。寝ぼけんな」
「へ?」
志岐の冷静な声に、やっと覚醒してくる。
ああそうか。社長が、きっと父親と会ったあとでは志岐の負担も大きいだろうからと、二人揃って休みをくれていたのだったと思い出す。
「あはは、椿君可愛いね」
「あー、はいはい。つーか何で桜田さんがいるんです?」
「桜田?」
ニコニコ笑って聞き返される。志岐の前で言いたくなかったが仕方がない。言わなきゃ答えてくれなそうだ。
「瑞希さんがなんでここにいるんですか?」
椿が桜田のことをそう呼ぶと、志岐がぽかんと口を開けた。
そうか。志岐は桜田の本名を知らないから。
「あー、志岐。桜田さん、本名が瑞希なんだって」
「んなことどうでもいいよ」
「ひどいなあ、あめ。あと由人君? 呼び捨てがいいなあ」
「なんで椿がそう呼ぶのかってことが気になるんだけど?」
「あー、志岐がいなくなったときにいろいろ相談に乗ってもらって仲良くなったというか……」
うんうん、間違ってない。嘘もない。そう思いながらも、気まずさを感じずにはいられない。
「ま、いいけど? 俺がいない間に二人が仲良くなったとしても。俺が椿と付き合ってるんだし」
付き合ってるという部分を強調して志岐が言う。桜田はクスっと笑って椿の近くまできて、腕を引いた。まだ寝起きで覚醒しきっていない椿は、桜田の胸に倒れこむ。
「事後って感じ」
そう耳元で囁かれ、下着しか履いていない自分の格好を思い出した。
「事後だからな!」
今度は志岐に腕を引かれる。子どものおもちゃの取り合いみたいだと思った。そうやって独占欲をみせてもらえるのは喜ぶべきことなのだろうか。
志岐はなおも桜田に見せつけるように椿を抱き寄せる。
ふと、これって桜田にしたら辛いことだったりするんじゃないか、と思いあたる。俺のことを好きだと言ってくれた、桜田には。
「おい、志岐……」
「あははっ、事後! えっちしたのかあ」
志岐から離れようとしたのだが、桜田の明るい笑い声に思わず動きが止まる。
なんでこの人笑ってるんだろう。
「ああ、よかった」
慈愛に満ちた微笑みが、椿の胸を切なくさせる。
……ああもう、ほんとこの人。
「瑞希……って、ほんとどうしようもないですね」
「ええ!? どうしようもない!?」
どうしようもなく、優しい人。
千紗や板崎洋と昨日会うことも伝えていたから、心配したのかもしれない。自分たちが今日笑っているかを、桜田は見に来たのだとわかる。だって言っていた。「あめと向き合う姿を見せて。それが俺の、椿君の好きな姿だから」と。
「あめー、どうしようもないってどういう意味だと思う?」
「さあ? まあ、いい意味じゃないだろうな」
「え!?」
本当に、自分と志岐のことを大切に思ってくれているのだと改めて実感し、椿は胸が詰まる思いがした。志岐が帰ってきたら、この人にどうやってお礼をすればいいか考えようと思っていた。何かを返さなくてはと思うんじゃない。寂しさだけじゃないものを、自分はこの人に残せないだろうかと思ったのだ。
「瑞希、俺はあんたに何ができますか?」
椿の真剣な声に気がついたのだろう。冗談を続けていた二人が黙る。やがて口を開いたのは志岐だった。
「……俺も、あんたには感謝してる」
「え、何あめまで。椿君とえっちして椿君の素直さが伝染した?」
「うるさいな。桜田と相馬には、ちゃんと言おうと思ってたんだ。……椿を、もらうから」
桜田は目を見張り、それから微笑んだ。
「うん。椿君と幸せになってね。あ、もうなってるか」
「うん……。あんたが、初めての仕事の相手でよかった。じゃなかったらきっと続けて来なかっただろうし、そしたら椿にも出会えなかった。弱い俺から、椿を奪うことなんかも簡単だっただろ。なのにそれもしなかった。俺のことも椿のことも大切にしてくれて、ありがとう」
志岐が頭を下げた。桜田はそれを困ったように見ている。正面からこういうことを言われて照れるところは、少し子どもっぽくて安心する。桜田との距離が、遠くないようで。
「いやー、ほんと、この仕事しててこんなに感謝される日が来るなんて思わなかったよねー。あめと初めてしたときなんか、可愛い子が相手だラッキー、くらいにしか思ってなかったのに」
「俺がガチガチに緊張してたとき、耳元で初めて『あめ』ってお前が呼んだの覚えてるか?」
「ああー、あったね、そんなこと。撮影前にAmeに似てるって周りから言われて嫌そうな顔してたから、撮影中もこっそり『あめ』って言ったら怒って緊張とれないかな、と思って言ったんだよね」
そしたら、と桜田が笑って言葉を続ける。
「目を真ん丸くしてさ、少し笑ったんだ。カメラには映らなかったみたいだけど。俺が、あめが初めて笑ったのを見たのはそのときだった」
志岐も微笑む。
「初めての仕事だったあのとき、周りはAmeと似てるって意味でこそこそ話してたのに、お前だけ俺のことを『あめ』って呼んだんだ」
志岐を示す言葉として呼んだ「あめ」。その一言が、その後の桜田と志岐の関係を決めたのだろうと思った。
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