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第七章 十一

「もう呼ばれることもないと思ってた俺の大切な名前を、お前が呼んだ」 「そんな深い意味もなく言ったんだよ」 「それでも。あのときから桜田は、俺にとってちょっと特別な存在になった」 「えー、ちょっとなのー?」 「ちょっとな。ほんのちょっと」  自分が出会う前、いや、出会ってからも自分よりずっと上手く、大事に志岐を守ってきた人だと、椿は思っている。ちょっと特別な友人として、仕事の仲間として、志岐を見守ってきたのだろう。口では憎まれ口を叩くけど、それを志岐も感じているはずだ。  椿と志岐は、桜田と向かい合って立つ。志岐は桜田に自分が幸せであることを示すように、椿の手を握った。 「俺と椿にできることはある? 何かしてほしいことはある?」 「えー、3Pしたいな」 「それはなし。俺もう椿としかしない」 「じゃあ由人君だけでもいいよ?」 「椿に手ぇ出したら友達辞める」 「うう……」  わざと戯けるのは、この人に欲がないからじゃないだろうかと思った。いや、性欲はあるみたいだけど。桜田が何か願うのはいつも人のため。自分が欲しいものが、わからないんじゃないだろうか。  桜田が考えている間に、椿はささっと服を着た。 「あ、じゃあさ、いつか由人君が処女じゃなくなるときは実況中継してよ」 「……は?」  椿と志岐は同時に聞き返した。 「あめがタチやるとこなんて想像つかないけど、由人君とならありえるかなあって。そのときは、ほんとは見せてほしいけど、それが無理だったら電話でもしてほしいな」  椿は桜田に向けていた切ない気持ちが、音を立てて崩れていくのを感じた。 「あんたそこに関して残念過ぎるんですけど」  まあ、それが桜田だと言われれば確かにらしいんだけど。 「俺は電話の向こうで自慰するから!」 「すっげえ嫌です、それ」  3Pよりはいいけど……。でも昨日のようにあんなに余裕なく求め合うところを電話で聞かれ……絶対嫌だと思った。 「いいよ」  あっさり答えたのは志岐だった。 「やったあ」 「いくないいくない!」  まさか志岐がいいと言うとは思わなかったため、椿は一気に焦る。  俺がおかしい? 俺の頭が硬い? いやいや、そんなことねえよな!?  心の中で自問自答を繰り返しながら志岐の肩を両手で掴み、目を合わせる。 「志岐さん? よーく考えろよ? 昨日のあんなん人に聞かせられるか?」 「椿超可愛かった。あれ自慢したい」 「意味わかんねえこと言うなって」 「えー? 由人君そんな可愛いくなっちゃうの?」  桜田が嬉々として話に入ってくる。志岐は志岐で本気なのかふざけているのかわからないが、満面の笑みで頷いた。 「すっごい可愛かった」 「え、ほんと見たい」 「見るのは駄目。聞かせてやる」 「そんなに声出すの? 可愛いなあ」  二人で意味のわからない会話を繰り広げるから、椿は諦めてキッチンに向かう。昨日から食べていないから腹が減った。 「瑞希さんもなんか食べますー?」 「わあい久しぶりの由人君の手作りー! 食べる食べる!」  キッチンから声をかければ、また嬉しそうな声が返ってくる。  桜田がよくわからなくなった。だってもし、志岐が別の誰かと付き合うことになったとして、そいつとのセックスなんて見たいか? 辛くないか? 俺だったら絶対見たくない。  椿は冷蔵庫を開けようとしていた手を止める。 「瑞希、ちょっといい?」  キッチンから顔を出して声をかける。志岐は椿が桜田と二人で話したがっているのを感じたのか、視線を投げて寄越しただけで何も言わなかった。  キッチンに置いてある椅子に桜田を座らせ、椿はその前に腕を組んで立つ。 「あれ? お説教モード?」 「まあ、そんなとこです」 「えー」  桜田がへらへら笑うから、椿は溜息を吐く。なんだか、いつもよりさらにへらへらして感じるのだ。いつもの柔らかい雰囲気にプラスして、とても楽しそうにも見える。 「さっきのあれ、本気ですか? 俺と志岐がしてるとこ見たいって」 「本気だけど?」  あっさりと返されて、また溜息が漏れそうになる。 「あんたはそれで辛くないんですか……? 俺が、他の奴とヤってるとこなんか見るの、辛くないんですか?」 「心配してくれてるの?」  ああだから。そうやってこんなことで嬉しがらないでほしい。あんたがいつもやってることじゃないか。相手が辛くないか心配して、フォローする……あんたが得意なことだろう? それを、こんな不器用なかたちでされて、どうしてそう喜べる?  言いたいことが上手く言えず、志岐との関係が上手くいくのと反比例して大きくなる桜田へのもやもやした気持ちに、椿は項垂れる。 「ああもう……」 「なんか椿君心苦しそうだね」  椿君、と距離を取るように言われ、顔を上げる。 「優しい子だね」 「……違うでしょ。わかってるくせに」  自分が志岐と上手くいったからこそ持つ罪悪感を消そうとしている。だから何か桜田にしなければと思うのだ。優しくない。自分がすっきりしたいだけの、身勝手な気持ちだとわかっている。 「なんかきついこと言ってくださいよ。ときどき言うじゃないですか」 「え? 俺いつからそんなキャラになったっけ?」 「……なってませんよ。いつも優しいですね」  厳しいことを言うときも、その根っこにあるのは優しい気持ちだと知っている。 「さて、どうしたものかなー。告白したときに全部終わったと思ってたけど。椿君、あめと上手くいって俺に悪いって思ってる? 俺が二人が上手くいったの喜んでるから余計……ってとこかな」 「瑞希さんエスパーですか」 「やめよっか」  さらりと、聞き逃しそうになるくらい軽く言われた。椿は意味がわからず、え? と聞き返す。 「友達。俺があめと君が上手くいったのが嬉しいのは本当の気持ちで、それは変えられない。そのことに椿君が罪悪感を持つなら、しばらく会わないでおこうか」 「な、そういうことじゃないでしょう!」  最悪だ。なんなんだ俺。余計この人に辛いことを言わせてる。距離を取らせてどうする。祝福してくれたのに。本当の名前を教えてくれたのに……!  名前……。 「名前」 「ん? なあに?」 「俺、誰にも、志岐にも、由人とは呼ばせません。あなたに、他に好きな人ができるまで」  自己満足だった。でも名前を縛られることで、罪悪感は少し薄れる。自分がそれを感じなかったら、この人と距離をとらなくてもいいはずだと思った。 「瑞希」  呼ぶと、桜田は椿と目を合わせた。何度か見た、欲を湛える男の目をしていた。 「馬鹿だね。自分から縛られる? 精神的にMなのかな?」 「それ、お互い様じゃないですか?」 「そうかもしれないね。いいの? あめにも呼ばせないの?」 「……はい」  答えを聞いて、桜田は椿の腰を引き寄せて、胸の辺りに顔を埋めた。 「ああ、なんかすっごく満たされるなあ。不思議」  こんなことに何の意味があるのかと言われると困る。椿と桜田の精神的な問題だった。友人よりも少し特別で、恋とは呼べない気持ち。志岐と同じだった。椿も桜田のことを、そう思っている。 「由人」 「はい」 「ほんとに俺だけにしてね」 「はい」 「俺だけが呼べるのはあめが帰ってくるまでだと思ってたのに。嬉しいなあ」  抱きしめ返さなかった椿をすぐに離して、桜田は立ち上がってリビングに戻っていった。  椿は少しの罪悪感を二人に持ちながら、その後は三人で他愛のない話をした。志岐は椿と桜田が何を話したのか、聞かなかった。  翌日からは忙しかった。志岐のこれからについて社員皆で話し合って、関係者に頭を下げに回った。  志岐は、母親にはまだ会いに行かないと言った。それは後ろ向きな気持ちではなく、志岐の前向きな決意だった。もう一度歌手としてデビューするために勉強して、努力して、少しだけ誇れる自分になってから会いたいという、自分に厳しい志岐らしい決意。やっぱり志岐は強いと、眩しく感じた。  ときどき喧嘩したり、キスしたり、仕事を探したり、セックスしたりしながら、椿と志岐は一緒に生活していた。  そして── 「……今日からここで働くことになりました、相馬秋良です。よろしくお願いします」  端正な顔に不満の色を浮かべながら、相馬は社長の隣で頭を下げた。  ──ようやく梅雨が開けた七月も下旬に差し掛かった頃、相馬が事務所に現れた。  第七章 終

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