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最終章 一

「寒い……暖房つけようよ」  志岐が事務所のソファで膝を抱えている。その前のテーブルに、つまらなそうな顔をした相馬が熱いコーヒーを持ってきた。 「あんたが稼いだらつけられるようになるよ」 「……やってやるよ」  そんな二人のやりとりを見て、椿は苦笑した。  十二月に入り、寒さが身に染みるようになった。早々にこたつを引っ張り出してきた志岐は、家では猫のように丸くなってこたつから離れようとしない。  事務所は相変わらず経営難で、節約のために暖房は入れていない。何だかんだ言いつつ、これまでは志岐が来ると絆されて冷暖房を入れたりしていたのだが、今年は志岐には鬼のように厳しい相馬がいるため、そうはいかなかった。  七月に事務所に就職した相馬は、元々頭の回転も早く要領も良いから、すぐに仕事を覚えた。猫を被るのも上手いから、事務所の先輩からは早くも信頼を得ている。 「じゃあ、来週はこれで動くからな。俺はまだこっちで仕事あるから、相馬、志岐をレッスンに送って行ってくれ」  椿がテーブルに広げていた資料を片付けながら言うと、相馬がやってきて志岐にコートを投げつける。 「はい、先輩。ほら志岐、早く用意しなよ」 「お前、俺にだけ態度悪いのがあからさま過ぎる。コーヒーまだ飲んでねえし」 「あからさまにやってるからね。そのコーヒーは先輩の。ブラックだからお前飲めないだろ」 「性格悪……」  志岐と相馬は口を開けば喧嘩ばかりしている。しかし、椿が着いていけないときに送り迎えをする相馬と、帰りに食事をしてきたりもするから、意外と仲は良いのだと椿は思っている。  ──相馬が来たときは、椿も志岐も驚いたものだ。社長はニコニコしていたけど、相馬はここに来たことは不本意だとでも言うように、機嫌の悪そうな顔をしていた。  事務所から帰って椿の家で事情を尋ねると、相馬はぽつりぽつりと話し始めた。  志岐と関わりを持ち、取材した内容を椿に話したこと、志岐を連れ戻す手助けをしたこと、全部「師匠」にばれ、そして、引導を渡されたと言った。 「俺には向いてないって。人のこと散々こき使っておいて、今更向いてないとか言うんだよ、あの人」 「ごめんな……」  もしかしなくても自分の所為だと思った。相馬の人生は、ことごとく椿に左右されている。申し訳なく思えて、謝るしかなかった。 「ごめん」 「なんで先輩が謝るの。どっちかって言ったらこいつの所為だから」  そう言って志岐を顎で指した。 「頼んでないのにお節介焼いてきたのはお前だろ。それに相馬がライターに向いてないのなんか俺でもわかるよ」  生意気なことを言いながらも、志岐は微笑んだ。 「お前優しすぎるもん」  言われた瞬間の相馬の表情は、あのときのものに似ていた。志岐のことを「敵わない」と椿に言ったときの表情に。  相馬は志岐に今も変えられていると、椿は感じている。不思議なことに、自分とずっと一緒にいても変わらなかった相馬が、志岐といるといい方向へと変わっていっている気がするのだ。相馬と志岐は気が合わなくても、いい影響を及ぼし合うんだろうなと思う。  志岐の歌手としての再デビューが迫っていた。事務所での打ち合わせを終えて、志岐は相馬と歌のレッスンに向かった。  椿は社長と話があったため、事務所に残った。  ◇  歌うことを再開してから、志岐が音楽に真摯に向き合っている姿を見ていた。楽譜をいつも持ち歩き、椿にはよくわからないことをたくさん書き込んでいる。  椿は音楽に関して素人だから、こんな風に一音一音気にしながら歌うものだとは思っていなかった。志岐が楽譜を読めたことさえ驚いたくらいだ。 「調子はどうだ?」 「完璧じゃない。音程に甘いとこがある。表現の仕方もまだまとまってない……ちょっと千紗に電話してくる」  家に帰ってきて、こたつに入って楽譜と睨めっこしていた志岐は、立ち上がって寝室に行った。電話をかけているようだ。  志岐が音楽に真摯に向き合うのは、千紗の影響が大きいのだと思う。音楽との付き合い方を、志岐は彼女を見て学んだと言っていた。Ameであったときの彼女を見て。  この数ヶ月千紗とも何度も会って、今彼女が音楽に関わる仕事をしていることを知った。  Ameのことがあってから歌えなくなった彼女は、しかし音楽と完全に離れることもできなかった。父親譲りのものなのか、彼女は作曲という面で才能を発揮していた。インディーズで上位にランクインしているグループの中には、千紗が曲を提供しているものもあるらしい。思えば、志岐に向けたメッセージであるあの曲も、彼女が一人で数日で作り上げたのだし、音楽と関わりがないわけがなかった。  だから無理を承知で、椿は社長と一緒に千紗に頼み込んだ。志岐の再デビュー曲を書いてくれないかと。  千紗の曲は、派手な曲ではない。万人受けするとは言い切れない。板崎洋が作るものとは、雰囲気が異なる。それでも、志岐の声に一番あっている曲を作れる人だと思った。  だって千紗は、志岐の声が大好きだから。 「お、電話終わった? 風呂先入る?」  志岐がまた難しい顔をして寝室から出てきた。今日は帰りが遅くなるから、相馬と外で食事してくるように言っていた。だからもう、あとは風呂に入って眠るだけだ。 「椿先でいいよ。俺ちょっと一人で考える」 「今詰めすぎるなよ」 「うん……。でも頑張んなきゃ。相馬を見返すためにも!」  相馬にしょっちゅう無職、役立たず、と馬鹿にされることに立腹している。その怒りもまた、今の志岐の原動力になっているようだ。  入れ替わりで風呂に入って、同じベッドで眠る。これにももうだいぶ慣れた。夏に志岐の布団も買ったのだが、いつの間にかまた一緒にベッドで眠るようになっていた。布団が嫌なのかと思って、椿が布団で寝て志岐がベッドで寝るようにしようと言ったら、小さな声で「椿にひっついて寝たい」なんて言われて、椿の方が離すことなんてできなくなってしまった。  歌のレッスンで疲れたのか、ベッドに入って早々寝息をたてる志岐。志岐は椿の胸に額をすり寄せて眠っており、その仕草が可愛くて、椿は思わずクスっと笑ってしまった。 「椿……?」 「あ、わり。起こした?」  ゆっくりと志岐の瞼が持ち上がる。 「 あったかい」  微笑んだ志岐が、椿の体温を求めるようにぴったりと抱きついてくる。  寒がりだからな。乾燥を防ぐために暖房を消してしまっているから、余計に寒いんだろう。  そう思い、しっかりと肩まで掛け布団をかぶせ、椿も志岐をやんわり抱きしめた。 「なんか言ったの……?」 「ううん。ちょっと笑っただけ。ごめんな、起こして」 「思い出し笑い?」 「え、ちげーよ。志岐が、可愛いなって」  椿の言葉に、志岐が肩を震わせて笑った。 「今日さ、相馬には逆のこと言われた。『お前みたいな可愛気のない奴のどこを先輩が好きになったんだかわからない』って」  心にもないことを。相馬は志岐の魅力がわかってる。俺が志岐のどんなところに惚れたのかもわかってしまっているから、諦めたんだろうに。そう思い、苦笑した。 「相馬と喧嘩し過ぎだから」 「だってあいつ、俺にだけ態度悪くない?」 「悪いけど。でも志岐、それ嫌じゃないんだろ?」 「どうかな」  楽しそうだ。相馬が来たときはどうなることやらと思ったが、志岐も相馬も楽しそうだからよかったと、今では思う。 「目ぇ覚めちゃった。さみー」 「温かいもの飲むか?」 「ううん。くっついてれば平気」 「そういうとこ、可愛いと思うよ」 「え、何。椿ときどき恥ずかしいこと平気で言うよな」  それは自分もだろ、と返すと、志岐はまた笑う。 「ねえ、ちょっと弱音言ってもいい?」  ふと沈んだ声に、椿は志岐を抱きしめる腕の力を緩めた。志岐が顔を上げる。

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