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最終章 五
「志岐、お前の歌う姿に、俺はいつも導かれてるよ。あのときも、今も。志岐が頑張る姿を見て、俺も頑張んなきゃって思ったんだ。俺も何かに挑戦しなくちゃって。穏やかに過ぎる時間は、俺だって好きだよ。でもそれを過ごすには、まだ早いと思うんだ」
「早いことなんか、ない……っ」
「うん。志岐がこれまで辛いこといっぱい経験してきたって、わかってる。だから目一杯甘やかしたい」
「だったら!」
志岐が顔を上げる。涙の雫が地面に落ちるのを見て、胸が傷んだ。また泣かせてしまったと。
「俺に甘えるあの時間を作るために、志岐だけが外で努力するのが嫌なんだよ。俺も同じだけ頑張りたい。努力してたい」
「それは、俺から離れないとできないの? 俺のマネージャーとして頑張ってくれるんじゃ、駄目なの?」
「マネージャーとしても、俺にはやっぱり学が足りない。世間を知らなすぎるし、頭も悪い。だから……お前が、ただ歌うことが好きなだけじゃなく、真摯に向き合ってるように、俺も仕事と向き合いたい。そのために、ちゃんと勉強したいんだ」
志岐が涙を拭う。袖で、何度も。椿はそれを、もう言葉は重ねることはせず見ていた。
「椿が、頭良くなったみたい……」
志岐の涙が止まってようやく出てきた言葉はそんなもの。
椿は思わず吹き出した。
「お前、それ失礼過ぎんだろ!」
「失礼なもんか。椿が、言いたいことは、わかった。信じる……でも、納得できないところもあるから、また話そう」
「ああ」
自分が考えたことだけを押し通すつもりはない。ちゃんと話し合いたい。ただ、時期を見誤ってはいたと思う。考え始めたときから話せばよかった。志岐があまりに強く頑張っているから、それに憧れて自分ももっと強くなってからと、変に気張ってしまったのかも。
「俺ほんと、志岐に惚れてるな」
もうわずかな家までの道程を、椿と志岐は再び手を繋いで歩く。きらきらしていた風景は見慣れた風景になり、現実味を帯びていく。しかしそれも、温かく感じる。二人で歩くことに慣れた道だから。
「見てろよ、椿。完璧に歌って、もっともっと惚れさせてやるから」
「うわー」
ここから気張っていかないと、隙間が埋められてしまいそう。
クスクスと笑いながら、ああそういえば飯も食わずに帰って来てしまったと、近くのスーパーに寄る。すぐに食べられる惣菜を買って帰った。
そうして簡単に食事を済ませると、たまには、と言って志岐が後片付けをしてくれた。と言っても、今日は洗い物も少ないのだが。
「椿、そうやって勉強してたの?」
志岐が片付けを終えてリビングに戻ってくる。問題集を広げていると、志岐もこたつに入ってきた。
「志岐が相馬と仕事行ってるときとかさ、社長が勉強に時間あてていいって言ってくれて」
「え、それいいの?」
「うん。だから給料は減らしてくださいって言ってる。試験前になったら、バイトにしてもらおうかと思ってる」
「……俺の知らないところでずいぶん話が進んでるわけね」
志岐がじとっとした目を向けてくる。
「ごめんなって」
「軽い」
「もう殴ったんだし勘弁してって」
からかうように言うと、志岐はそこで初めて椿を引っ叩いたことを思い出したらしい。急に焦り始めた。
「あ、さっきはごめん! 痛い? 今からでも冷やす!?」
「平気平気。腫れてねえだろ?」
「だけど……ごめん」
しゅんと項垂れる志岐を見て、椿は笑って頭を撫でた。
「俺こそごめん。もう隠し事しないで全部話すから。志岐も一人で頑張んないで話して。不安も、不満も。社長にも、そう言われてたのにな。恋人同士なんだからちゃんと話せって」
志岐も椿も、付き合ってから、お互いの前でいい格好をしたいという気持ちが芽生え初めて、時折素直に話すことの邪魔をする。お互い、まだまだガキだなあと思う。
志岐は瞳を躊躇うように揺らした。何か言いたいことがあるようだ。
「何? さっそく何かある?」
「……俺は由人って呼んじゃ駄目なの?」
やっぱりそこだよな。相馬も、志岐が気にしてると言っていたし。
「うん……それは、もうちょい待って。瑞希と約束したから。瑞希に次に好きな人ができるまでは、志岐にも呼ばせないって」
志岐が悲しそうに瞼を震わせる。
可哀想だけど、これは約束だから。でも志岐が、悲しそうな顔をするだけで、そんなの絶対嫌だと言わないのは、志岐にとっても桜田が大切な人に変わりないからだ。
「……椿、俺、椿を抱きたい」
言われた言葉の意味を理解するまでに時間がかかる。志岐の髪に触れていた手を、無意識に離す。
「俺に、挿れたいってこと……?」
志岐は確かに頷く。
「椿の中に入りたい」
初めて志岐とセックスしたとき、椿は志岐に挿入されてもいいと言った。しかしその後、志岐が椿に挿れたいと言ったことはなくて、志岐にそういう気はないのだと思っていた。
「椿の中に、桜田も相馬も入ったことないんだろ? 前に付き合っていた彼女も当然ないし、それができんのは俺だけでしょ?」
強い独占欲を湛えた瞳が、椿を見つめる。本来怯むところなのかもしれないとは思うが、椿はその独占欲に自分の欲も刺激された。
「そうだな。後にも先にも、それはお前だけだ」
言いながら、志岐に唇を寄せる。しっとりとした唇に、椿は自分のものを重ねた。
「……いいよ。志岐なら、何してもいい。挿れたいなら、そうしよ」
もっと普通は悩むものなのかな。そりゃあ、未知の体験は怖いけど。でも志岐にされるなら、いいかなと思う。多少の苦痛を伴う行為も、受け入れられると思う。
「何してもいいとか言いつつ、勝手に離れようとするんだから」
「ごめんな」
そう言って、椿は志岐の唇をそっと舐める。ふるりと身体を震わせた志岐が、小さく口を開き、舌を見せた。ゆっくりと、それに自分の舌を絡ませる。唇を塞いでいないから、その口から漏れる熱い息遣いを感じる。
「んん……」
声が、可愛い。
そう思うともっと深く口付けたくなって、可愛いらしい声を漏らす唇を塞いだ。志岐も同じだったらしく、喜んで応えてくれる。
「椿……、準備しよ」
しばらくそうしてキスを繰り返していると、志岐が言った。
「ん、と、自分でやるよ」
そう言うのに、志岐が首を振る。
「俺がやりたい。っていうか、しなくてもいいんだけどね」
「は? どういうこと?」
「別に綺麗にしなくったっていいよ」
椿はなかなか意味が理解できなかった。
綺麗にしなくてもいい?
「えっと、それってどういう……」
「椿のだったら、うんちでも何でも付いて平気ってこと」
ぎょっとして、動きが止まる。流れていた甘い空気が、凍る。
志岐がAVでスカトロがあるものにも出ていたことは知っているし、見たこともある。途中で、あまりの内容に見れなくなってしまったのだが。
それを思い出し、言葉が出なくなってしまう椿の様子に、志岐は苦笑した。
「ごめん。キモかったね」
「や……、キモいとかじゃなくて」
「ごめんね。可愛い恋人じゃなくてさ」
「そんなことねえけど……志岐、スカトロとか、やりてえの?」
やりたいって言われたらどうしよう。しかも俺のならってことは、俺に漏らしてほしいってこと? できるか……? いやちょっと、さすがに……でも志岐がやりたいって言うなら……いやいやでも……。
「はは、椿、すっごい困った顔してる」
志岐が急に笑うから、焦って頭がいっぱいいっぱいになっていた椿はぽかんとしてしまう。
「やりたいわけじゃないよ。そういう性癖はない。平気ってだけで。でも椿が俺のためにやってくれることだから、見たいと思っただけ。やらせてほしいと思っただけ」
「う、ん……わかった」
「やらせてくれる?」
「今日は、まだちょっと待ってくれ。そこ見られんのはまだ、心の準備ができてない」
志岐は微笑んだ。
「また、やらせてくれんの?」
「え、今日だけの話だったのか?」
だったら全部志岐の好きなようにやらせてやった方がいいのか?
「次も、って思えるかはわかんないじゃん。もしかしたら椿、あんま気持ちよくないかもしれないよ?」
「気持ちよくなくてもいいよ。志岐が気持ちよくないならやんないけど」
「優しい、椿」
椿はこたつから出る。志岐に一つキスをして、準備をするために浴室に向かった。
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