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陸
一町もせぬ先に羅生門、其ような場所に確かに唐菓子 で商いをする店 があった。
しかし人の影も気配もせず、不気味であった。
「誰かおらぬか。私は宮中護衛兵隊の弥生の君の命で参った者である。」
奥に呼び掛けると、人が出て来た。その人は唐人 の女人 であった。
「弥生様よりたまわっております。よう参られました、滝原殿。」
唐国の敬意を払うお辞儀をされると靖久も頭を下げた。
「世話になる。」
「ここは私一人で商いをしております凛 と申します。」
「ところで…暫くの寝間などは其方 と共に…ではあるまいな。」
靖久がほのかに顔を赤らめたずねれば、凛は袖で口を隠し小さく笑う。
「お戯れを。店とは別に蔵がございます。狭しところですがそちらをお使い下さいまし。」
「では案内 を…。」
凛はひとつ笑うと「こちらでございます」とついて来るよう促した。
店から三十歩 (*)ほど離れたところにこれまた粗末な掘っ立て小屋があり、凛は遠慮なくそこに入った。
「雨風 をしのぐだけで良いと弥生様が仰ってましたので…。」
靖久は護衛兵隊の内慣らし(*)で山中などで一夜を過ごしたことはあっても、長き日々をこのような粗末なところで暮らすことは初めてであった。たじろぐ心を隠そうと靖久はうその笑みを凛に向けた。
「陽が落ちるときに夕餉 をお持ちいたします。あ、あと、竃 の隣にございます唐菓子はお好きに召し上がってくださいまし。」
「何もかもかたじけない。」
(狗 (*)の役目だ、庶民になりきらねば…。)
凛は「ごゆるりと」と言い、己は商いにと店へ戻る。
わずかな荷を下ろし、冷たい板の上に腰を下ろした。寝床は薄い畳が一枚あるのみのようだった。
(岩の上で寝るよりは良いか。弥生の君…あのお方は何故私にこのような酷な命を下されたのだ。やはり腹が読めぬわ。)
飯は凛が世話をするらしいが、筆も墨も紙もなかった。近くは陽が傾き始めたがまだ商いで賑わっていたのでどこかの店で調 ずることにした。
小屋を出て、朱雀大路を歩こうとすれば人々は皆端に寄って頭を垂れておった。内裏の方向をみれば、高貴なる列がこちらに近づく。靖久も隠れるように合わせて頭を垂れながらもどの家なのかと見る。
(あの牛車は滝原 藤友 卿の…側室のお方が身持ちだと父上からも聞いていたが、もう間も無くか。)
それは靖久の縁戚のものであった。藤友は靖久のおじで齢は三十をとうに超えておるが、新たに娶った側室は十五の美しき娘であると伝え聞いていた。滝原家の新たな命の誕生に心は和やかになる。しかしそれは直ぐに消えた。
「鬼だあぁぁああ!」
一人の男の叫びがこだまし、人々は顔を上げた。牛車の行く手を阻むのは、麻布を被った虚無僧のような姿の。
「青成…!」
『羅生の鬼』となっておる青成はかかってくる護衛の武官をひと突きで絶命させた。途端に武官たちは牛車を囲む。青成が尸から刀を抜いた刹那、靖久は青成に立ち向かう。青成の美しい瞳に靖久の顔が映った。血まみれの鋼と靖久の刀が鬩 ぎ合う。
「羅生の鬼!やめぬか!」
「………邪魔立てするなら、貴様も往ね。」
突如間に入った靖久に武官たちは驚嘆する。靖久はのろのろとする武官たちを叱責。
「おい!今のうちに羅生門を出ぬか!阿呆が!」
「貴様ぁ!民草 のくせして無礼であるぞ!」
「ではこの殺鬼 の餌食 となるか!牛車におる姫君と腹の子ごと!」
その言葉を発すると青成の力が不意に抜ける。靖久はその感触を逃さずに、左で拳をつくり、青成の鳩尾 を打 った。靖久は前のめりになる青成を受け止めその身体を横に抱えて刀を鞘に納めた。
「おい…貴様、何者だ…。」
「………弥生の君の使者だ。」
「ひぃ…!」
靖久が間違いではない身を明かすと武官は恐ろしいという顔をした。弥生の君を見たことのない貴族にとって弥生の君もまた鬼であったからだった。
(墨と筆と紙は、また明日出直すか…。)
人々の騒がしきところから逃れるように、青成を抱えて靖久は己の拠 り所である小屋へ急ぎ入った。
*内慣らし=練習
*狗=密偵
*三十歩=50mくらい
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