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【BLホラー】夢 その2
そこは、真っ暗だった。
自分の指先さえ見えない程の見事な漆黒の闇。
どこか、外にいるのだろう。
外気を感じ、肌寒い風が頬をかすめる。
「誰か、いませんか?」
大声で、叫んでみるが、返事はない。
ぐちょりと、足先に生ぬるい不快な泥濘を感じて、自分が裸足だったことに気付く。
寝間着代わりのTシャツに短パンに裸足。布団に入ったままの恰好。
ここはどこだ?
なぜ、こんなところに一人きりでいるのだろう?
確か……
渚は、ようやく西村の家に夢人と泊まりに来たことを思い出した。
きっと、これは夢の中なのだろう。
西村の言っていた通り、すごくリアル。
とてもじゃないけど、これが夢だなんて信じられない。
「おーい、夢人っ、西村さんっ!」
暗闇のヌルヌルと滑る泥の中、叫びながら進む。
返事はない。
おかしい。二人はいないのだろうか?
ここは、渚だけの夢なのだろうか?
確信はなかったが、この出来事が不浄のものの仕業だったのなら、一緒に寝ると西村の夢を自分も共有できる気がしていた。
予想通り、西村の夢の世界に入り込めたと思ったのに。
ザリッ、ザリッ、
聞いたことがあるような不快な金属音が耳元で鳴る。
ぞくりと全身に鳥肌が立つ。
――この音、何だっけ?
ザリッ、ザリッ、
――昔、よく聞いたような……あれは、子供の頃、台所で……
ザリッ、ザリッ、
そうだ、包丁を研ぐ音だ。
そう確信したときには、勝手に体が動いて走り出していた。
チリリとした痛みがうなじをかすめる。ヤバい。
一瞬、確かに殺気の様なものを感じた。
――間一髪だった。あと一秒でも遅ければ、首を落とされていた……
訳の分からない存在に狙われている。
ありったけの力を振り絞って、夢中で走る。
泥のヌルミに足を取られ、滑ってスピードが出ない。
それでも、必死に走る。
今、自分にできることは、走って逃げるしかない。
心臓がドキドキする。
こめかみを汗が流れる。怖い。
――急げっ、急げっ!
さっき、切り付けられた傷がピリッと痛む。
足の裏に感じる泥のヌルヌルした触感、うなじの傷の痛み。
これは、本当に夢なのだろうか?
リアル過ぎる。こんな夢、今まで見たことがない。
ここは、普通の夢ではない。夢だからと安心できない。
この夢の中は、実際に傷つけられる。命を落とすこともあり得る。
実感した途端、焦りで、パニックになる。
ハッ、ハッ
自分の激しい息遣いが辺りに響く。
依然として、自分に向けられている殺気を感じる。
ハッ、ハッ
苦しい。息があがって苦しい。
心臓がバクバクして、空気を求め、肺が激しく活動している。
――こんな事なら、毎朝ジョギングして体力を養っておくんだった。
足がガクガクして、力が入らない。
ふらつく体を気力で支えながら、走る。
走っていると言っても、もはや歩いている方が早いかもしれない。
ハッ、ハッ
今にも倒れそう。体力の無さが悔やまれる。
体中を嫌な汗が流れる。
全身を使って必死で息をするけど、空気がうまく流れ込まない。
――苦しい、息が出来ない。でも、逃げなくちゃっ! 急げっ!
渚は、とうとう、足がもつれて、転んでしまった。
立ち上がって、走らなくちゃと、思うのに、足が萎えて力が入らない。
体はもう、限界だったのか、立ち上がることも出来ずに、その場に座り込んだ。
――嫌だ
死がすぐそこに迫っている。
毛穴という毛穴の全てから嫌な汗が流れ、心臓の鼓動が五月蠅い。
怖い。
体が、ブルブルと震える。
頭がぼっとして、何も考えられなくなる。
「夢人っ、ゆ、夢人っ」
死ぬのなんて、怖くないと思っていた。
でも、実際に自分の身に迫ってくると、例えようもなく怖い。
こんな暗闇の中で、たった一人で死にたくない。
――夢人、助けて! 助けて!
「渚っ!」
腕を引っ張りあげられ、ぎゅっと抱きしめられた。
暖かくて、心地の良い腕。
安堵のあまり、涙がにじむ。
――助かった。
思わず縋ってしまった腕の主を見上げると、それは西村だった。
「渚、お前もここに来ていたんだ。自分以外の人間が出てくるの初めてだ」
「やっぱり、ここは西村さんの夢の中? それより、刃物が……」
「大丈夫。お前と出会えて悪夢じゃなくなった。ほら、もう、目覚める」
そう言って、西村はさらに抱きしめる手に力を込めた。
西村の言葉の通り、忌々しいほど真っ暗だった世界が次第に白みはじめる。
凶悪な空間だったのが、すっかり潜め、不思議な安心感に包まれる。
――あ、帰ってきた
瞼を開けると、心配そうに自分を覗き込む顔。
「夢人?」
「渚、大丈夫?」
「うん、無事に帰って来れた」
気のせいか、夢人の目が赤い。泣いていた?
「いくら呼びかけても、全然、反応しないし……目覚めないかもって不安になった」
そう言うと、抱き付いてきた。
肩に顔をうずめているから、どんな表情をしているか見えない。
その顔を見てやろうと体をよじると、ますます強くしがみ付いてきた。
「夢人、顔を見せて?」
全身を固くして、しがみ付いたまま。
可愛い。こういう夢人の計算なしの素直さが可愛いと思う。
口の悪い友人が年下の恋人の醍醐味と言っていたが、なるほどそのとおりだ。
「顔を見せてくれないと、おはようのチュウもできないよ?」
渚の笑いを滲ませた声で夢人の手が緩む。
夢人の整った顔が上気している。少年から大人の男に成熟する一歩手前の危うい独特な魅力が夢人にはある。その潤んだ目に劣情を掻き立てられる。
正面から見つめ合って、顔を近づけた時。
「渚!」
西村が夢人を押しのけるように近づいてきた。
夢の中とはいえ、抱き合ってしまったのを思い出す。
力強くて、暖かい腕だった。
いやいや、あれは特に意味のある行為じゃなかった。
自分には夢人がいるし、西村には確か彼女がいたはず。
渚は無理矢理、思考を封じ込めると、西村に話しかけた。
「西村さん、夢は?」
「うん、渚、ありがとう! おかげで、今朝は爽やかな目覚めだったよ。すごく、気分がいい」
西村が晴れやかな笑顔を向ける。多くの人々が魅了される笑顔。いつもの笑顔のはずが、ドキリとする。
「あのさ、しばらく一緒に寝てもらえないかな? もう、限界だったんだ……頼む」
「何いってるんだよ! 駄目に決まってるだろ? ほら、渚のここ、切り傷がある。渚を危険な目にあわせる訳にいかないだろっ! それに、不浄のものの気配は全くしないから祓うことも出来ないし」
「君には関係ないだろ? 俺は渚に言ってるんだ。君じゃない」
「何だと!」
渚は、今にも殴り合いを始めそうな二人の間に割り込んだ。
「しばらく西村さんの家に泊まる。俺もそうだったから、ツラい気持ちがよくわかるし、力になりたいんだ」
夢人が捨てられた子犬の様な傷ついた表情で見つめてくる。
ぎゅっと胸が締め付けられる。
自分が好きなのは、夢人だけだ。
西村を助けたいのは、純粋な厚意だ。
かつて、夢人に助けられ救われた。だから、自分もそんな風に誰かの手助けになりたいだけ。
こうして、渚は西村の家に居候することになった。
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