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4-5 アキヒコ
「あんまり深く考えへんほうがええよ、アキちゃん。考えすぎんのが、アキちゃんの悪い癖やんか。その、由香ちゃんも気の毒やったけど、事故なんやろ。運がなかったんや。アキちゃんが悩まなあかんようなことは、なんもないよ」
「俺がもっと早く来てて、助けてやれればよかったんかな」
ずっと悶々 と思ってたことを、俺は亨に言った。亨は苦笑したみたいに声もなく笑った。
「そんなん言うてたら、キリないやん。狂犬病の犬とデスマッチするんか、アキちゃんが?」
「狂犬病なんか、その犬」
当たり前のように言う亨に引っかかって、俺は訊 ねた。亨はきょとんとした。
「そらそうやろ。まともな犬やないで。普通、犬は人間食わへんで。頭おかしなってるから、人襲ったんやろ」
亨の言うことは、なんの裏付けもないのに、きっとそうやという気がした。狂った犬が、京都の街をうろうろしてる。それが今朝、ついそこに来て、女の子ひとり食い殺していった。これはもう、放っとかれへん。何とかせなあかん。そういう気がして、俺は不思議やった。
何とかって、何や。俺がいったい、何するっていうねん。
「その犬、どこいったんやろ。守屋のおっさんたち、ちゃんと探してんのか」
魔法瓶 の蓋 閉めて机に戻し、亨は足を組んだ。
パイプ椅子の背に腕を乗せて、何となくしどけないように身をよじる座り姿は、組んだ長い足が綺麗で、そのまま絵のモデルみたいやった。絵になるやつ。俺は描きたい衝動 を感じて、それもまた、我慢させられた。
お前と居 ると、我慢ばっかりせなあかんから、俺はつらい。
「探してるらしいで。見つけて処分せなあかんて。教授が張り紙作って、暇なやつに張って回らせてたわ。危険な犬が出没しています、くれぐれも注意して、って」
「どないして注意すんのん。ガルル、みたいな犬に出くわしたら」
「逃げるしかないんちゃうか」
言われてみりゃそうやと思って、俺は苦笑して答えた。逃げるしかあらへん。
「それもええけど。おかんに訊 いてみたらどうや。そういう時、どうすりゃええのか」
にやにやして、亨は教えてきた。何かを匂わせる、意味深な口調やった。
「普通の犬とちがうんか」
亨が示唆 する意味に察しがついて、俺はうっすら顔をしかめた。
おかんは巫女 や。そんなようなもんや。不思議な力を持つ舞いで、不浄を祓 い、幸福を呼べるというので、人には登与 様と崇 められている。
俺はその一人息子で、登与 様の跡取り。皆はそう期待してるらしい。
俺にはそんな力はあらへん。俺は長年、そう思ってきたけど、どうも、あるらしい。ただその使い方が、未 だにわからへん。
修行せなあかんえと、おかんはこの半年、ことあるごとに言ってきた。そして亨を手なずけて、何やかんや、こいつに指図 してるらしい。
「普通の犬とちがうやろ。狂ってんで。それに、足が強いわ。大阪から京都まで、走ってくるようなやつやもん。人食うて、もっと強うなったかもしれへん。やばいなあ、アキちゃん。誰かが、なんとかせなあかん」
日ノ本 を、厄災より守るが、我が血筋の務 め、と、おかんが亨を介して寄越してきた手記に記されていた。俺のおとんが、若い頃に書いてたもんらしい。若い頃いうても、おとんは若いまま死んだ。俺と同じ、二十一の歳にはもう、おとんは死んでた。
せやけどその頃にはすでに、ひとかどの覡 やったと、おかんは話してた。天地 におわす神々の力をお借りして、戦うこともできたんや。その血を引いて生まれたんやから、あんたにもできますえと、おかんは俺を焚 き付ける。
虎 の子が、猫 のふりして生きていくんか。それであんたは、情けなないんか。あんたが好きでたまらんらしい、あの子を捕まえておくには、相応 の力が必要どす。式 を捕 らえて、満足させておくのは、うちらの務 めやで。
強い式 が必要どす。強い巫覡 として立つには。
あの子なら、申し分ない。あんたはやっぱり、秋津の子どすなあ。うるそう言われへんでも、ちゃんと血筋の務 めを果たしてます。あとはどうやって、あの子を支配するかや。
お父さんのお書きになったものを、しっかり読んで、おきばりやすと、おかんはそう言ってよこした。電話でもメールでもない。渡された古いノートの間に、切り紙細工みたいな人型の紙ペラがはさまってて、それがはらりと床に落ち、ひょこっと立ったかと思うたら、おかんの声でぺらぺら話したんや。
怖い。怖くてたまらん、うちのおかんが。
紙ペラはしばらくうちにいて、亨とテレビ観てたりした。刑事ドラマ観たい言うてた。
そのうち動かんようになったんで、亨がキッチンで焼いて、流しに捨てた。まあこれも一種の水の流れやから。トイレよかマシやんね、アキちゃんと、ちょっと悪戯っぽく言って、亨は笑っていた。
おかんが言う、あの子って、亨のことやろ。
俺はこいつを、捕 らえようとしてるんか。捕 らえて、支配して、逃げんように満足させとこうって、そういう腹なんか。自分では、そういう自覚ない。でも結局、俺は自分の血筋に操 られてるだけなんか。
「なんとか、ってな……亨。おかんは、お前を戦わせろて言うてんのやで」
「そうや。それは俺も知ってんで」
薄い笑みのまま、亨は待っている顔で俺に答えた。
「そんなこと、させられへん」
「なんでや。俺、アキちゃんの役に立つんやったら、嬉しいで。戦えいうなら、死ぬまででも戦う」
「やめてくれ、そんなん。俺はいやや。なんでお前をそんな危ない目に遭 わせなあかんねん」
俺は怖くなって、小声で答えた。それは、いかにもびびったような早口で、自分でも、逃げ腰やと思った。
「血筋の定めらしいで、アキちゃん。俺は別に、それでええよ。戦うんやったら、いっぱい抱いてくれ。力が要るんや。腹ごしらえしとかんと」
にやりと白い歯を見せて、亨は笑った。どことなく陶酔 したような、淫靡 な笑みやった。
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