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5-2 トオル
せやから縛 ってもらわれへんのか。自由にしたらええよって、呆 れて、放置されてんのかな。
アキちゃん、和食党やったんか。好き嫌い言わんと、なんでも美味 いて言うもんやから、全然気がつかへんかった。普通に喜んでくれてるんやと思ってた。言えばええのに。そんなこと。
なんで俺に遠慮 するんやろ。なんで俺は、それに気づかへんかったんやろ。
昨日今日にぽっと出てきたような犬が、それを知ってんのに、なんで毎日一緒に寝てた俺が、そんなことも知らんかったんや。
出ていけ言われて、俺はつらい。犬に負けた。そんな気がしてくる。
アキちゃんは、まだ作業あるし、絵描かなあかん。お前が居 ったら気が散るし、よそへ行っといてくれ、家帰っといてくれ。自分も今日は早く帰るしと、そう言うて俺を追い出した。
あの犬が、今作ってんのは死んだ女の遺作 やし、仕上げてやらなあかんて、アキちゃんを口説いたからやった。アキちゃんは絵描きとしての本能で、それはもっともやと思ったらしい。
描きかけのままの絵が、放置されんのは可哀想やって。もともと三人で作ってたもんやった。遺 った二人で、最後まで作ってやんのが、せめてもの供養 って、優しいアキちゃんは素直にそう思ったらしい。
それがあかんのや、アキちゃん。なんでそんな甘っちょろいボンボンやねん。
そんなん作戦に決まっとるやないか。邪魔な女が死んで、とうとうあの狭 い部屋にアキちゃんと二人っきりや。犬はそれにハアハアしてんねんで。あいつはとうとう、仕掛 けることにしたんや。
なんで俺、もっと頻繁 に大学まで見に来てへんかったんやろ。
ほんま言うたら大学までは来てたんやで。アキちゃんの知り合いに、アキちゃん何やってんのって、喋 りに来たりはしてたんや。
せやけど、アキちゃんは絵描くときに俺がいるのがうるさいみたいやから、邪魔せんとこって思って、本人のところには行かへんようにしててん。
そんな俺って、控 え目で、健気 やろって、内心ちょっと酔 ってたんかもしれへん。うるさい奴やって、嫌 な顔されんのが、つらかっただけかもしれへん。
でも、行かなあかんかったなあ、今にして思えば。行ってれば気づいてたかもしれへん。こいつ犬やって。あの美少年の面 をいっぺんでも拝 んでたら、絶対に気がついたのに。
あいつ。俺よか若い。見た目が。十八くらいか。
それに可愛い。なんかちょっと女みたいで。髪の毛長いし。
アキちゃん、あいつのほうが好きやろか。
もし、そうやったら、俺どうしよう。どうしよう。
どうしようと、そればっかり思って、俺はふらふらと、教授連中 の部屋のある、研究室棟 という建物まで来てた。
研究て。なに研究してんの。研究なんかしてるように見えへんで。少なくとも、アキちゃんの担当教授やってるホモのおっさんは。絵描いてるだけやで。地べたで。
おっちゃんな、名前、苑一 て言うんやで。苑 が名字 で、一 が名前や。皆は、苑 センセて呼んでるんやけど、他の教授連中には、ようネタにされてる。
苑 先生、いてはりますかて、学生が訊 いてきたら、そのセンセて、どのセンセやねん、そのイチや、そのはじめ。その二はおるんかて。その二はおらへん。そのはじめなら、どこそこにおるでと、わざわざ言うのが定番らしい。いじめてんのか、苑 先生を。
まあなあ。いじめたくなんのも分かるわ。なんかそういう愛され方やねん、苑 先生は。情けないねん、覇気 がなくて。アキちゃんでさえ、全然気づかずに、苑 先生には、いつもひどいことばっかり言うてるわ。
でも別にそれでええかと思えてまうところが、苑 先生の、苑 先生っぽいところらしいで。学生たちに言わせれば。
案外、人気 あるんや。ホモ先生。
「ホモ先生言うな。そういうことはな、明言 したらあかんのや」
俺が、こんにちはホモ先生いうて、研究室に顔出したら、絵描いてた苑先生は、泣きそうな顔して、そう言うた。
おっちゃんは、なんか野菜の絵描いてた。京野菜言うのか。この大変なときに、なんで野菜の絵なんか描いてんのや。アホちゃうかと、俺は思った。そして、思うだけやのうて口にも出した。
「なに描こうと俺の勝手やろ。大変なときやからこそな、気を落ち着けようと思て、絵描いてんのや。ほっといてくれ」
くよくよ言い訳して、苑 先生は筆を置いた。
おっちゃんは人の見てる前では恥ずかして絵が描かれへんらしい。
野菜の絵のどこが恥ずかしいねん。なんか変な妄想 ぶつけて描いてんのか。まさかアキちゃん関連やないやろな。想像するだけでも許されへんわ、このエロオヤジが。
「どしたんや今日は、亨くん。本間くんならCG科におるで」
デスクの古びた革張 りの椅子に座って、湯飲みについであった冷めた茶らしいもんをすすり、苑 先生は教えてくれた。
部屋にクーラー効いてるせいか、おっちゃんはいつものトレードマークの、枯 れた草色のチェックの上着を着ていた。
それ、いつ洗濯してんの。実は何着もおんなじのを持ってんのか。クロゼット開けたら、全部その上着なんか。それはそれで圧巻 やな。
アキちゃん、なにげにお洒落 やから、その野暮臭 さが耐 え難 いらしいで。アキちゃんにモテたいんやったら、まずそこを直さなあかんと思うんやけど、俺がそんなこと教えたるわけない。
敵はたとえ最弱 なやつでも、戦う前に抹殺 しておいたほうがええんや。万が一にでも、こいつにアキちゃんとられたら、どんだけ悔 しいか知れんで。
「アキちゃんとはもう、いちゃついてきた後やねん」
「ああそうか。そんなら何の用やねん、君は。なんでいちいち来るんや」
くよくよ言って、苑 先生はまた泣きそうみたいやった。なるべく俺のほうを見んようにしてはった。
苑 先生は俺の性格は嫌いやけど、顔が好きらしい。アキちゃんと同じで、綺麗 なもんが好きらしいで。せやから俺の顔見ると、描きたくなるんやって。
でも俺がモデルやれいう話に絶対ウンとは言わへんもんやから、おっちゃん、悲しなってしもて、俺の顔見るのも嫌 んなってきたんやって。
だって。嫌 やん。アキちゃん以外に自分の絵描かれるのは困るし。それに、苑 先生、ヌード描きたいんとちゃうの。俺、脱 がへんで。少なくとも、タダでは脱 がへん。
「苑 先生、アキちゃんといっしょに何か作ってた女の子、今朝死んだんやなあ」
俺が戸口で訊 ねると、苑 先生は、ぬるいお茶を飲みながら、渋 い顔をした。
「そうや。花林糖 食うか」
木をくり抜いて彫 り上げてある赤茶の菓子鉢 を持ち上げて、苑 先生は茶菓子 を俺にすすめた。
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