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6-8 アキヒコ
確かにその時の勝呂 は、凍 えそうに寒かった。
それとじっと向き合って、こいつは何か、決着をつけにきたんやと、俺は感じてた。
言いたいことがあるという目で、勝呂 は俺の目を見ていたし、誰がいようが、それを言う。亨でも。
不都合やったら、よそへやっといたほうがええんやないかと、そんな警告みたいに見えた。
俺はそれに、怖 じ気 づいたんやと思う。勝呂 がなんの話をするつもりか、何となく察 して。
「亨。悪いけど、途中の階にコーヒー売ってたやろ。冷たいの、買うてきてくれ」
振り返らずに俺が背後に頼 むと、亨はびくりとしたようやった。
「あかんで、アキちゃん。何言うてんの。一緒に居 らせて」
「行ってきてくれ。屋上に居 るから」
振 り返って、俺は頼 んだ。せやけどそれは、命令やった。
亨は険 しい青い顔して、しばらく唖然 としてた。それでも俺に逆らいはせえへんかった。
俺はその時はまだ、気づいてへんかった。亨が俺の命令に、逆らえないんやということに。
しばらく震えたように押し黙り、亨はやがて、物も言わずにくるりと向き直って、大階段を降りていった。
屋上までは、すぐそこやった。
最後に残る幾 つかの階段を上がり、俺は勝呂 と、誰もいない蒸 し暑い屋上の炎天下に出た。そこは、ほんのちょっと居るだけで、暑いなと喉 の喘 ぐような場所やった。
何の飾 り気 もない灰色のコンクリート敷 きに、ところどころベンチがあり、京都の盆地がぐるりと見渡せた。その手近なベンチを選んで、勝呂 は俺をそこに座らせ、電源が入ったままやったノートパソコンで、今朝仕上げてきたという、架空の祇園祭 のムービーを見せた。
大して長い映像やない。四条通 を河原町通 に向けてやってくる色鮮 やかな山鉾 の背景には、灰色一色に落ちた、簡単にデフォルメされた街並みがあり、おなじみの祇園囃子 が鳴り響 く。鉾 が進むと、街にはびこる疫神 が、追われるように逃げまどう。幻想的なような、ユーモラスなような、毎年の祭りの光景や。
ただ、普通なら祓 われる疫神 は目に見えないというだけで。
せやけど、見る目があれば、それは見えるんかもしれへん。追い祓 われていく疫神 が。
もともと祇園祭 は、京都の街を疫病 や災害から守るための祭礼 で、疫神 はほんまに追われていなければならんはずなんや。
破魔 の効用のある囃子 と、潔斎 して神のものとなった稚児 を押し立てて、鉾 は街の辻辻 を浄 めて回る。今では無数の観光客が押し寄せて、ただのパレードみたいになった祭りやけど、本来そういう姿のもんや。
今でも先頭を行く長刀鉾 には、生きた本物の稚児 が乗って、稚児舞 いを舞 う。
それを俺にもやれと、適した年頃のときに、人づてにそんな話があった。おかんはそれを丁重 に断っていた。アキちゃんは力がありすぎる。それに、潔斎 しても落とせない穢 れがある。向きまへん、人前で舞 うのには。
おかんは自分も舞 いで身を立て、弟子 までとるような人やのに、俺には踊 れと言うたことがない。不思議やけど、人に言われて踊 るんでは、意味あらしまへんというのが、おかんの主義やった。
自然に手足が動く。自然に絵筆が走る。そういうもんでないと、なんの力もない。
アキちゃんは絵が上手やなあ。それに絵が好きなんやから。それが天地 がアキちゃんにお与えになった力ということどすえ。大事にしなあきまへん。畏 れなあきまへん。あんたの描く絵には、ただごとでない力がありますえ。
おかんは親馬鹿で、俺の絵を褒 めてるんやと思ってた。でもほんまに、それだけやったやろか。
勝呂 が開いて見せた画面の中にうろつく、自分が描いた疫神 の絵を見て、俺は思った。疫神 は病気を運ぶ物 の怪 や。そんなモンの絵を、山ほど描いたりして、ほんまによかったんか。
「もうほとんどできてます。このままでも、人に見せられんことはない」
ベンチに座って、俺と同じ画面を見つめながら、勝呂 は険 しい顔で冷や汗をかいていた。
「先輩。これが完成したら、言おうと思ってたことがあります。でも、この作品は、もう完成せえへんのとちゃうやろか。由香 ちゃんも死んだし、こんなことになって、先輩ももう、これが出来上がらんでも、別にどうでもええって思ってはるんかもしれへん」
思ってないよ。完成させたい。せやけど、これは、完成したのを大勢 の人に見せるようなもんとは、違うんやないやろか。そんなふうな予感が、俺にはするんや。
普通の人には見えへんもんを、絵にして見せようやなんて、それは悪いことなんやないか。疫神 なんて、そんなもんおらへんて、皆が信じてる時代なんやから。
「先輩、俺、先輩のこと好きです。ずっと好きでした。俺のこと、好きですか」
小声で訊 ねてくる勝呂 は、ものすごく苦しそうやった。炎天の熱で、俺はくらりと来た。
そんなもん、あるわけないと信じて、見んようにしてるもんが、俺の世界には沢山あり過ぎる。
変やろ、それは。お前が俺を好きで、俺もお前を好きやて言うたら、それは、まずいやろ。
お前は俺の後輩で、可愛い奴やけど、俺には亨がおるし、お前は男やし、そんなわけないやろ。
お前は、由香 ちゃんが好きなんや。そうに違いない。だって由香 ちゃんが俺と二人でいい雰囲気になろうとすると、お前は必ず邪魔をした。それは俺が好きやからやない。由香 ちゃんが好きやからやろ。
そのほうが、普通やで、勝呂 。そのほうが自然なんや。きっとみんな、そう言うで。
「なんで、黙 ってるんですか、いつも。好きやないなら、好きやないって、言うてくれてええんですよ。そしたら俺も、諦 めるのに。何で黙 るんですか」
「お前のことは、嫌いやない。好きや」
俺がぼけっと、そう答えると、勝呂 は小さく呻 いたようやった。苦しいんか、切ないんか、よう分からんような声やった。たぶん両方なんやろ。
「ほんなら、何があかんのですか」
目眩 でもすんのか、勝呂 は片手で目元を覆 っていた。
「俺、見ました。あの人が作業室に来た時、先輩に抱いてもろて、キスしてたんを。許せへん。なんでや。俺も先輩とずっとあの部屋に居ました。何日も何ヶ月も、ずっとや。俺も抱いて欲しい……」
そこまで言って、勝呂 は感極 まったみたいに、言葉に詰 まった。そして、目を覆ってた手を口元へやって、ベンチの上にある俺の手を、じっと食い入るように見下ろしてきた。それを掴 みたいという、そんな目やった。
けど勝呂 は俺に触ったことはない。一回だけしか。
お前はどうやって絵を動かしてるんやて、俺が興味が湧 いて聞いたら、勝呂はいつもの作業室で俺にパソコンのソフトを試させた。
マウスを握 ってる俺の手に、勝呂 が手を重ねてきた。
その指が冷たいような、熱いような、不思議な体温で、微かに震えてたのを、俺は感じて、どうすりゃええんやと思った。
けど、そのときはまだ、由香 ちゃんが生きてた。作業室に戻ってきた由香 ちゃんの声で、全部うやむやになったんや。
それから俺は、ずっと気をつけてた。こいつが俺に、触れへんように。俺がこいつに、触れへんように。
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