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6-9 アキヒコ

「先輩、俺は、あの人みたいに、()(まま)言いません。なんでも言うことききます。別れてくれなんて言いません。ただ、ちょっとでええから、俺にも、触って。俺も先輩と、抱き合ってキスしたい。俺のこと、瑞希(みずき)って呼んでください。いっぺんだけでも、ええねん。お願いやから」  勝呂(すぐろ)(のど)(かわ)いてるみたいやった。酷暑(こくしょ)()かれて()れたような声やった。  亨は今どこに居るやろと、俺は考えてた。早くコーヒー買って戻ってきてくれ。  アイスコーヒー。あいつ、ちゃんと勝呂(すぐろ)の分も、買うてきてやってくれるかな。喉渇(のどかわ)いてるらしい。苦しいて言うてるで。  俺はこいつが、可哀想(かわいそう)や。目の前で苦しいて言われると、可哀想(かわいそう)になる。 「それは、無理やわ、勝呂(すぐろ)。そんなん、変やろ。お前は俺の後輩で、俺には亨が()るわ」 「あの人のどこが、俺よりいいんですか。先輩のこと何も知らんやないか」  (すが)り付くような目で俺を見て、勝呂(すぐろ)は亨を非難していた。 「そうかもしれへん。そうやけどな……」  勝呂(すぐろ)の言うとおりかもしれへんけど、俺はずっと逃げてきた。勝呂(すぐろ)がこの話をするのから。それにはいつも理由があった。勝呂(すぐろ)が男やからやないわ。そんなん今さら大した問題やないよな。 「俺は亨が好きなんや。あいつを傷つけたくないねん」  口に出してみると、ものすごく単純な話やった。それでもこの話を勝呂(すぐろ)にしたくなくて、俺は逃げ回ってた。  お前のことも、傷つけたくなかってん。つらいっていう、今このときみたいな顔を、させたくなかった。 「先輩……(きら)いやて、言うてはったやないですか」  震えてるような声で、勝呂(すぐろ)が問いただしてきた。押し殺した悲鳴みたいやった。 「嫌いて、なにがや」 「(へび)嫌いて言うてました。(うろこ)系はあかん、気持ち悪い、せやから竜も描かへんて」  CGの山鉾(やまほこ)に着せる、(つづ)()りの文様(もんよう)の話やろ。勝呂(すぐろ)がしてるのは。  確かにそんな話した。俺は(へび)は苦手やねん。(うろこ)が怖くて。竜も嫌や。  描いたらあかんねん。おかんに怒られる。川が乱れるからて言うて、悪い子やって、また(くら)に閉じこめられる。俺は自分の力を、自分で(おさ)えられへんねん。せやから描いたらあかん。想像するのもあかんねん。 「それと亨と、何の関係があるんや」 「何のって……あの人、(へび)やないですか。知らへんのか、先輩」  知らん。亨はそんなこと、一言も言うてへんかった。 「ほな、それ知ったらもう、抱かれへんでしょ、気持ち悪うて。どこがええんや、あんなやつの。俺よりちょっと先に、先輩と会っただけや。俺でも代わりやれます。俺かて先輩のこと好きや……ずっと好きやった、分かってください。俺のこと、無視せんといて……俺も見てほしい、先輩、お願いです、お願いや、俺のこと好きやって言うてくれ」  勝呂(すぐろ)の手が、迷いもなくノートパソコンを払いのけるのを、俺はぼけっと見ていた。ノート機はあっけなくコンクリートの床に落ちていった。  (こわ)れるで、勝呂(すぐろ)。精密機械やねんから。  気にならへんのか、お前は。パソコン(こわ)れても、由香(ゆか)ちゃん(こわ)れても、それでええのか。邪魔やからやっただけやって言うんか。  勝呂(すぐろ)は俺の胸ぐらを(つか)んで、凄い力で引き寄せた。そのまま首に抱きついてきた腕が、物凄く強引で、それでも(おび)えてる犬みたいに、がたがた震えてた。  胸に飛び込んできて、両手で俺の(ほほ)を引き寄せる勝呂(すぐろ)は、それでも待ってた。  こいつは俺にキスしたいんやなくて、されたいんや。抱いてくれ、()でてくれって、健気(けなげ)にずっと待ってる。  ほんまに、犬みたいなやつ。  俺は気づきたくない。それを、信じたくない。 「お前が由香(ゆか)ちゃん食うたんか。なんでや、勝呂(すぐろ)。友達やったんとちがうんか」 「友達やないです。あの女、俺が先輩のこと好きやって、知ってたんやで。せやのにずっと、俺に先輩のこと好きやって、どうやって告白しよかなって、相談してたんや。ひどいわ。あんな女、死んだらええんです。でも、先輩、信じてください、殺すつもりやなかってん。でも、俺……おかしいんや、病気なんです。苦しいよ……助けて……」  キスしてくれって、ねだる唇で、勝呂(すぐろ)(ほほ)()り寄せてきた。  不安なんやろ、こいつは。ほんまに病気なんやろ。苦しそうな息してる。冷や汗かいて、がたがた震えてる。俺もお前を、らくにしてやりたい。せやけど、その方法を、知らへんのや。  お前はなんで、病気になったんや。なんでや。いつから病気になったんや。俺が描いた疫神(えきしん)の絵を、毎日(なが)めてきたせいか。 「先輩、好きや。好きです……俺のこと、抱いて、キスして。そしたらもう、死んでもええねん。このまま、死ぬのはいやや」  全身でかき口説いてくる勝呂(すぐろ)を突き放すのは、可哀想(かわいそう)すぎてできへんかった。  なんで俺は、こいつにキスぐらいしてやれへんのやろ。可哀想(かわいそう)や。たとえ人食うた犬でも、こいつのせいやない、俺のせいや。お前がおかしなったんは、俺のせいなんやろ。  なんとかならへんのかと思って、俺は勝呂(すぐろ)(ほほ)に手を()れた。  その時、俺は、勝呂(すぐろ)にキスするつもりやったんかもしれへんな。勝呂(すぐろ)はそれも可哀想(かわいそう)なくらい、期待と嬉しさに満ちたため息ついてた。薄く開かれた、待ってる唇に指で触れると、(かわ)いていて熱かった。  でも、結局それまでやった。  亨が(さけ)んでる声が、突き()さってくるような(するど)さで聞こえた。 「あかんで、アキちゃん。そいつは病気の犬やで。キスしたらうつる。アキちゃんを連れてくつもりなんやで!」  絶叫するようなその声に教えられて、そうやったと、俺は思い出した。  狂犬病って、唾液(だえき)からうつるんや。()まれたらうつる。  もしもその時、俺がもうちょっと早く思い切ってたら、勝呂(すぐろ)は俺と、()みつくようなキスをしたんかもしれへん。  うつむいて、(うな)勝呂(すぐろ)の声は、人間とは思われへん暗い凶暴さやった。  その時、勝呂(すぐろ)のちょっと可愛いような顔が、どんなふうになってたんか、俺には見えなかった。見ないようにしたんかもしれへん。  勝呂(すぐろ)は俺を()り捨てて走った。亨のほうへ。  その光景に蒼白になりながら、俺は納得した。勝呂(すぐろ)は人間やない。人やない何かや。  逃げろと、俺は亨に言うたかもしれへん。とっさのことで、よく憶えてない。  亨は葛藤(かっとう)して、そして、逃げようとした。俺が逃げろって、叫んだからやろ。そんなこと、言わんかったらよかった。何もかも全部、俺のせいなんや。  勝呂(すぐろ)が狂ったのも、由香(ゆか)ちゃんが死んだのも。  そして、亨がこのとき勝呂(すぐろ)に勝てへんかったのも。  勝呂(すぐろ)は逃げるべきか迷う亨の胸ぐらを(つか)んだ。()()った亨の白い喉笛(のどぶえ)に、勝呂(すぐろ)が食らいつくのが見えた。  その次の瞬間には、信じられんぐらいの真っ赤な鮮血が吹き出して、亨はよろめいていた。  勝呂(すぐろ)はそれだけでは満足がいかなかったらしい。(のど)に食らいついたまま、亨を引きずっていって、京都タワーの見える、屋上の(はし)のガラスの壁に、血の壁画を描くみたいに、(くずお)れた亨の体を滅茶苦茶(めちゃくちゃ)(たた)きつけた。  俺はそこに、()け寄ってたんやろう。  亨が俺を見てる目と、俺は一瞬見つめ合った。  アキちゃんと、亨が呼んだような気がした。それは音のある声やなかったかもしれへん。  アキちゃんと、亨は二度、俺を呼んだ。助けを求めてるわけでも、(うら)んでるようでもなかった。ただ俺の名前を呼びたくて、呼んだんやと思えた。  亨、と、俺はそれに答えた。一度だけ、やっと、声にはならん声で。  亨の体は、まるで本当にはないもののように、ひびひとつ入れずに、分厚いガラス壁をすり抜けた。  落ちる。  それを俺は、血まみれの壁に張り付いて見た。  亨が落ちていくのを。十一階分の高さを。

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