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6-10 アキヒコ

 一瞬やった。何かが激しく衝突(しょうとつ)するような音が、下から聞こえた。  俺が声に出して、亨の名を呼んだのは、その音を聞いた後になったからやった。  自分の絶叫する声の残響(ざんきょう)を、俺はガラスにもたれて、へたりそうになりながら聞いていた。 「憎たらしい(へび)や……」  人ではないものの声で、勝呂(すぐろ)(うめ)いていた。  俺は顔をしかめて、その声がしたほうを振り向いた。  勝呂はいちおう、二本の足で立っていた。せやけど、その姿は(けだもの)やった。  お前は(みにく)いと、俺は思った。(みにく)い狂った(けもの)やで。  俺はもう、お前が好きやない。お前が憎い。この(わざわ)いを防げなかった自分が、心底、はらわたの煮えくりかえるくらい憎いわ。 「勝呂(すぐろ)」  呼びかける俺の声は、案外冷たく()んでいた。 「すまんけど、ひとりで死ね」  はあはあと、狂犬は病的な熱い息を()り返していた。 「俺は、亨と死ぬから」 「いやや。俺と死んでくれ」  熱く()びるような声やった。  突進してくる、でかい犬のようなものを、俺は目を()らさず見つめていた。  俺はお前が許せへん。可哀想(かわいそう)やけど、許せへんわ。  そう思って、苦しさと(むな)しさのあまり、目を閉じた俺は、頭の中で一枚の絵を、(やぶ)り捨てたようやった。  俺を食おうとしていた(けだもの)は、俺に()れるより早く、()たれた犬のように、悲しく、激しく()いた。  しかし()()らしたという実感があった。  犬は俺を通りぬけ、ガラス壁をすり抜けて、真夏の京都の炎天に駆け上がっていった。そして見えなくなった。死んだわけやない。手応えはあったような気がしたけど、仕留(しと)めてはいない。  自分がどんな力を振るって、なにを感じたんか、夢中すぎて俺は良く分かってなかった。  気がつくと、京都駅の大階段を、必死で()け下りていた。なんで走って降りたんやろうなあ。人間て、必死になってると、何するかわからへんもんや。エスカレーターもあるし、エレベーターかてあるんやで。  それでも階段を駆け下りる俺は、まるで風のようやったらしい。なんや、よう分からんもんが、大階段を物凄い速さで吹き降りてきたと、その場にいた人々は、後から証言したらしい。  俺は地上に叩きつけられたはずの亨を探してた。  おびただしい量の血だまりはあった。けどそこに、亨の体はなかった。  何かでかいもんが、()いずったような、のたうち回る苦しげな血の軌跡(きせき)だけがあり、それは暗い灰色の駅舎と、隣の建物の隙間(すきま)へと続いていた。  それを追って、俺は亨を探しにいった。  路地裏の(やみ)は、真夏の日射しの鋭さか、夜から切り落とされてきたみたいに、ざっくりと深く、色濃く落ちていた。  そこにも血だまりはあった。  血に染まった亨の服だけが落ちていて、その中に、大人の腕ぐらいの太さの、白い蛇が、ぐったりと沈み込んでいた。  その傷だらけの金色の眼をした蛇を、俺はそれ以上傷つけないように、服に包まれたまま抱き上げた。 「死んだらあかんで、亨。俺が悪かった。死んだらあかん」  思わず(ほお)ずりして頼むと、(へび)の体は冷たく、血で(ぬめ)っていた。  アキちゃん、家に帰りたいと、(へび)が言ったような気がした。  家に帰りたい、連れて帰って。そういう(へび)に黙って(うなず)いて、俺は車停めてた駐車場まで、そのまま歩いた。  大した距離やなかった。せやけど、血まみれの白蛇(しろへび)抱えた血まみれ男は、充分に真夏の怪異やったやろう。  でも、その時は、そんなことどうでもええわと思った。そう思ってさえいなかったと思う。  ぐったりした(へび)(ひざ)に抱えたまま、俺は運転して出町(でまち)の家まで帰った。よう事故らへんかったな。どこをどう走ったか、全然憶えてへんわ。  気がついたら家の寝室にいて、亨をベッドに寝かしてやってた。その時はまだ、蛇やったで。  亨に戻ったんは、その後や。  どうやって変転するんか、俺にはわからへん。人間やからな。とにかく亨は、総身(そうみ)の力を()(しぼ)ったような気配で、人の形に戻った。戻ると、傷がどんだけ深いか、よく分かった。  俺は泣いてたかもしれへん。それとも、泣きたいような気持ちやっただけか。  ぼろぼろになってる亨の手を(にぎ)って、まだ血の(あふ)れてる胸に(ひたい)()り寄せ、俺は必死で(あやま)ってた。  許してくれ、亨。お前の言うこときかへんで、俺が悪かった。全部俺のせいやったんや。そのせいでお前が死んだら、俺も死ぬ。死なんといてほしい、どうすればええんやと、俺は亨に話しかけてた。  アキちゃん、抱いて、キスしてくれ、って、亨は声に出して言ったんや。そして沢山血を吐いた。  声に出して言わんでも、その時の俺には亨の声は聞こえたんやないやろか。せやから(しゃべ)らんといてくれと、俺は(たの)んだ。  言われるまま抱きしめてやって、キスすると、血の味がした。それでもまだ、熱いキスやった。まだ生きてる。亨は死んでない。それだけが、その時の、唯一の希望やった。  アキちゃん、血を吸ってもええかと、亨が聞いてきた。  俺は(うなず)いた。血なんか吸いたいんやったら、いくらでも吸ったらええよ。それで死んでも、別にかまへん。それでお前が助かるんやったら、全然かまへんで。  亨はちょっと、笑ったみたいに見えた。でもそれは、気のせいやったかもしれへん。  ()れたような、切ないような、愛しげな目で俺を見ている亨の瞳が、すうっと針のような細い金色の虹彩(こうさい)()け目に変わり、血に濡れた赤い唇を開いた亨の口に、(するど)(きば)があった。  それを恐ろしいとも、(みにく)いとも、俺は思わなかった。ただ愛しいだけで。  死んだらあかん、亨。お前を愛してる。俺にお前を、守らせてくれ。天地(あめつち)の力を全部吸い尽くしてでも、お前を助けてやる。  そう呼びかける俺に、亨はなにも答えなかった。その代わりに、ためらいのない(きば)を、ざくりと俺の首筋に突き立てた。  痛みはなかった。いや、あったのかもしれへん。それでも、それは、亨がいなくなる痛みに比べたら、ほとんど感じへんようなちっぽけなもんやった。  亨は俺の血を吸い、疲れると、キスしてくれと言った。ぐったりと(こた)えない亨の唇に、俺は何度もキスをした。そうして短く眠り、目が()めると、亨はまた血を吸った。  夜が明けようとしていた。  どこかで猫が鳴いている声がしていた。目覚まし時計が鳴った。部屋の電話も鳴っていた。でも、そのどんな音も、俺の耳には入ってこなかった。  ただ、亨を抱いて横たわり、その息の音を聞いていた。それが絶えず、ゆっくりと()り返し続いているのを、亨の(ほほ)に耳を押し当てて聞いているばかりやった。  三昼夜(さんちゅうや)、それは続いた。恐ろしい昼と夜やった。  ひとりで生き残るなら、いっそ死んだほうがええわと俺は思ってた。だから自分の死は怖くなかった。  怖いのは、ただ、亨が消え失せることだけやった。 ――――第6話 おわり――――

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