39 / 103
7-1 トオル
とにかく俺は朦朧 としてた。
寒いのと痛いのと苦しいのとで、細かい事はあんまり憶えてへん。
あいつに殺られかけたんは憶えてる。勝呂瑞希 や。あの犬畜生。とうとう正体あらわしやがって、汚らしい犬っころの分際で、俺のアキちゃん食おうとしよった。
骨の髄 まで疫病 みに食われてもうて、並みの人間食らうくらいやと保 たん、アキちゃん食いたいて思うたに違いないわ。
俺は初め、そうなんやと思ってた。
でも違うみたいやったで。あいつはどうも、本気でアキちゃんに惚 れとるわ。心中 しようと思ったんや。噛 みついて病気うつして。
いや、それもほんまは違うんかもしれへん。ただ、キスしてもらいたかっただけなんかもしれへん。自分がもうすぐ死ぬって分かって、どうしてもそれが心残りやったんやろ。
分かるわ。その気分。俺も今回は若干死にかけた。あいつには、ほんまに散々やられたで。
俺、ヤバいんちゃうか。実はこれ、マジで死ぬんやないやろかという予感がして、怖くて震えてくると、それでどうなるかなんて事は全然頭になくなって、キスしてくれってアキちゃんに頼 んでた。
怖くて寂 しいねん。アキちゃんに抱かれてたい。
死ぬんやったら、それはしゃあない。でも怖いし、悲しいから、俺が死ぬまで抱いといてほしい。死ななあかんのやったら、アキちゃんの腕ん中で死にたい。
それはずいぶん贅沢 やけど、惚 れた身の本音のところやろう。
あいつもそうやったんちゃうか。あの犬も、もう死ぬて思えて、怖かったんやろ。アキちゃんに、身も世もなく泣きついとったで。抱いてくれ言うて。俺も愛してくれて言うて。
俺にはあいつが演じるお涙頂戴 の愁嘆場 が、全部聞こえてた。アキちゃんの声もや。聞こうと思えば俺は地獄耳 なんやで。
ご主人様のお言いつけどおり、コーヒー買いにパシらされながら、ぷんぷん怒って階段降りつつ、それでもどうにも心配でたまらんで、ずっと聞き耳立ててたわ。
アキちゃんが俺を、好きやって言うた。
そんなこと、他の誰にもたぶん今まで言うたことない。アキちゃんにとって、それは恥 なんや。
せやのに言うたで、あいつには。亨が好きやから、お前を抱かれへんて、そう返事してた。
あいつはそれで、逆上 したんやろ。もう殺さなあかんて、そりゃそう思うわな、俺のことを。
殺しても、しゃあないんやで、勝呂瑞希 。俺を殺 っても、アキちゃんはお前のモンにはならへん。アキちゃんが好きなのは、俺やねん。俺を愛してる。お前やのうて。
可哀想 になあ、つらいやろ。俺もアキちゃんが俺やのうて、お前を愛してたら、どんだけつらいやろ。
あいつにズタボロにされながら、俺はそういう哀 れみと、勝利感に酔ってた。
戦えって、アキちゃんは俺に命令せえへんかった。逃げろて言うてた。せやけど、あいつは俺を逃がしはせんかったで。アキちゃんやのうて、俺を食おうとしたんや。
まあそれも、ひとつの手やな。人やのうて、他の物 の怪 を食うやつもおるわ。それ自体、命懸 けやけど、もしも食えれば、ずいぶん精 が付くやろ。
せやけどそれも、俺の買いかぶりか。あいつはただ俺が憎うて、殺したかっただけかもしれへん。あいつは俺を、食いには来んかった。
お前が憎いて言うてたわ。お前さえおらんかったら、アキちゃんとキスできたのに。抱いてもらえたかもしれへん。もしかしたら、愛してくれたかも。
そうかもしれへん。アキちゃんはたぶん、あいつが好きやった。
あいつが病気やのうて、人食いなんぞやっとらんで、ただあの可愛げのある顔で時たまにこにこするだけの犬やったら、アキちゃんはあいつのことも、自分の式 として捕 らえておこうかと思ったんやないやろか。
それで時たま気の向いた時には、俺やのうて、あいつを抱いてやったかもしれへん。お前が好きやて言うてやったかも。
いつか俺よか、こいつのほうが可愛げあるわて思うようになったかもしれへん。尻尾 振 ってついてくる犬が可愛いて、お前は亨より可愛いなあ瑞希 って、名前呼んでやったかもしれへん。
俺はそれが嫌やった。あいつに負けたくない。誰にも負けたくないんや。
アキちゃんが俺以外のやつと抱き合うのは、絶対に許せへん。
そうなるんやったら、しゃあない。アキちゃんがそうしたいんやったら、どうしようもないって、今まで自分に言い聞かせてたけど、けど現実に、そういうことを目の当たりにすると、耐えられへん。大人しく消えようなんて、これっぽっちも思わへんかった。
ぶっ殺したる、犬畜生 が。お前を殺して、アキちゃんも骨まで全部食うたるわ。
誰にも盗られんように、最後の一欠片 までアキちゃんを全部俺のもんにする。そんなことしたら、俺はきっと死ぬほど後悔するやろ。それでも、誰かに盗られるよりマシや。我慢でけへん。アキちゃん殺して俺も死ぬ。そういう狂気やで。
でもそれを感じたんは、一瞬だけやった。
一瞬あれば罪になるには充分かもしれへん。けどそんな醜い俺を、アキちゃんは好きやて言うてくれてたで。
亨が好きや。大の苦手な蛇 でもかまへん。お前のことは好きやけど、抱かへんて、あいつを拒 んだ。抱いてやったら、俺より可愛い式 かもしれへん、可哀想 にがたがた震えてたあいつを、拒 んだんやで。
俺は勝った。あいつに。
ともだちにシェアしよう!