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8-1 アキヒコ
おかんは、ほんまにやって来た。
亨が電話で話してた声は、俺にも嫌っていうほど聞こえてたんや。
なんでか、やたら耳が鋭 い。力も強くなったみたいで、水飲もうとしたグラスを派手 に握りつぶしたりした。
それで破片 で手切れて、うわ、ヤバいと思ったら、見る間に傷が治ったりした。そっちのほうが、よっぽどヤバい。
せやけど、まあええかって、これはこれで便利やなって、自分に言い聞かせて、おとなしく割れた破片 を片付けてみたり。
お前はもう、人間やないしって、突然そういうことになって、動揺しない奴がおるやろか。俺はたぶん動揺してた。相当に動揺してた。どうしていいかわからへんかった。
それでも俺が案外平気やったのは、自分が下手すると半永久的に生きてるらしいという、亨の話を聞いたせいやったやろう。
亨はずっと昔から、ずっと若いまんまで、ひたすら生きてるらしい。死のうと思えば死ねるけど、生き続けたいと思ってる限り、生きてられるような体らしい。
そんな無茶 な体に、俺もなったのかもしれへんかった。
もしほんまにそうなら、俺は亨と、ずっと一緒にいられる。年食って賞味期限が来て、これはポイみたいに、亨に捨てられることもない。永久にフレッシュなままってことやで。
それはつまり、俺は誰にも亨を譲 らなくていいってことや。あいつが俺に、飽きへん限りは。
今まで、たぶんずっと、それで悩んでた。俺は死ぬのに、あいつは永遠に生きる。その、どうにも埋められへん大きな隔 たりが、唐突に埋まった。
そのことに、動揺してる。
明らかにヤバい、普通でない外道 っぽい体にされたんやけど、俺はそれが嬉しいんやろう。これで亨と、ほんまにずっと一緒にいられるって思って。
せやけど、一難去ってまた一難やった。
亨の具合は、どうも良くない。
抱き合った後の一時は元気で、俺は亨があれで治ったんやと早合点 した。
なのに、しばらく深く眠って、すっきり目覚めて隣を見たら、亨がぜえぜえ言うてたんで、俺はびっくりして、また生きた心地がせんようになった。
渇 いて苦しいて、亨は言ってた。
寒いのに、喉 が渇 いて苦しいて言うから、水を飲ませてやろうとしたら、いらんて言うねん。水が怖いんやって。我慢 して飲んでも、猛烈 に喉 痛くて、呑み込めずに吐き出してしまう。
別にええねん、飲まへんでも。飯食ったり水飲んだりできへんようになっても、それで死ぬわけやないから。亨はそう言って、それが大したことやないみたいな口ぶりやったけど、俺は怖かった。
それは例の、病気のせいやろう。
お前はもともと、必要なくても、日に三度ちゃんと飯食ってたし、美味いもん食いに行きたいて、飯デートつれてけって俺にねだった。
俺がコーヒー飲んでたら、自分も飲みたいて言うて、付き合って飲んでたやんか。
それに蛇だけに酒好きで、いつも楽しそうに酔っぱらって、俺に甘えて襲いかかってたやん。そういうのが全部なくても、別に平気やでと言うお前が、俺にはありえへん。
亨は弱ってるんやて、それに実感が湧いて、内心猛烈 に怖くなった。
そんな顔面蒼白 の俺のところに、おかんはよそ行きの着物着て、大荷物持った舞 ちゃんを連れてやってきた。
舞ちゃんはなんでか、黒系のゴスロリ服を着てた。それで風呂敷 包みの大荷物を三つも持ってんねん。一つは背負ってて、両手にもでかいのを一つずつぶらさげてる。まるで昔の夜逃げか泥棒 みたいやで。
ツッコミどころ満載 やったけど、俺は言葉が出なかった。なんて言うてええか分からなすぎ。
「おかん、心配かけたな」
ピンポン鳴らして、部屋の玄関に現れたおかんに、俺は開口一番、詫 びを入れてた。
おかんは普段どおり、にこにこ可愛い顔して、涼しげな鉄線 の柄 の絽 の着物に、束髪 にした黒髪には、氷みたいなガラスの簪 さしてた。
その綺麗 な姿には、昔から、一分 の隙 もなかった。
この人も場合によっては、寝癖 ついたぐちゃぐちゃの髪してたり、よだれ垂らして寝てたりするんやろか。亨みたいに。
想像つかへん。想像しよかという前段階で、脳死してる自分を感じる。
「アキちゃん、なんていう顔やのん。お髭 も剃 らんと。うちが剃 ったろか」
そんなに生 えへんほうやけど、さすがに三日も放置となると、すさんで来るんやで。
でも何か、一通りの身支度 はしたものの、髭 剃 ろうというところまで、気力が及 ばへんかってん。あと一歩なんか足りてない。
変な話やけど、家を出てからは特に、おかんと顔合わせる時は、俺はたぶん、めいいっぱいめかし込んでた。気合い入れてますみたいな気配はせんように、別に普段着やけど、アキちゃんは今日も男前やなあて、おかんがお世辞 言うような姿でいようとしてた。
それが無精髭 やからなあ。俺もよっぽどフラフラなんやで。亨のせいで。
「いや、いらんよ、そんなん。みっともない顔で悪いな。さっき起きて着替えたとこやねん。亨がな、おかん。具合悪いねん」
立ち話のまま、俺はおかんに言った。何とかしてくれて、そういうニュアンスがむんむんしてた。
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