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9-3 トオル
俺はな、腹ぺこやってん。
もう、血吸うぐらいのことでは、満たされへん飢 えがある。
勝呂瑞希 もそうやったやろ。初めはちょっと噛 みつく程度で我慢 してたのに、最後には人食いはじめてた。命の器 から漏 れ出てくる精気を舐 めるだけでは足らんようになってきて、命そのものを食らって生き延びようとした。
それでも、そんなもんは一時しのぎや。あいつは病気で、一時回復しても、結局はまた疫神 に蝕 まれる。
せやけど、俺はどうやろ。もう疫神 は去った。今このときの命を繋 げれば、あとは回復するだけやで。精 の付くようなもんを、がつがつ貪れれば、それで死なんで済む話や。
でもな、まさかほんまにアキちゃん食うわけにはいかへん。そんなん本末転倒やからな。他の人間食うわけにもいかん。
おかん食うんか。腹壊すわ。舞 は人やない。食いたい言うたら、アホかて言うやろ、あの女。舞には舞の都合があるし、あいつはおかんに仕えてる式 や。勝手に死なれへん。
ほな、ふらふら出ていって、道歩いてるやつ片っ端から食うか。それで口の血拭 って、何食わぬ顔でアキちゃんのところに戻って来れるか。
蛇 でもええんや、ほんなら人食った鬼でもええよなって、そんなこと平気で言えるやろか。
なんで人食うたんやって、アキちゃんは勝呂瑞希 を詰 ってた。アキちゃんにとっては、許されへんことなんや、それは。
それをやったら、もう愛してもらえへん。それは嫌や。愛が醒 めたて、冷たい顔されるくらいやったら、お前が好きや死なんといてくれて言われて死んだほうがマシ。
そう思って、俺は潔 く死ぬ覚悟 やったんやで、トミ子。
「うちはなあ、クリスチャンやってん。知ってるか、キリスト教やで」
聞いとんのか、トミ子。なに話逸 らしとんねん。俺の健気 な激白 はスルーか。
「自殺は大罪 やねん。自殺したら天国へ行かれへん。それで困ってもうてなあ。地獄行くの怖いわあ、て、ずっと居残ってた節 もあるんや」
大丈夫や、地獄も天国も気の持ちようやで。それにお前みたいな鬼並みというか、鬼顔負けみたいな顔のやつやったら、地獄の悪魔か鬼さんも、こいつはスタッフやろって思って、大して虐 めへんのとちゃうか。
「もう。亨ちゃん。ふざけてへんと、まじめに聞いとくれやす」
ふざけてへん、俺は。本気で言うてんのや。
そう言うと、猫は、がくりと項垂 れた。もう話してても意味ないわみたいな、ものすごく呆 れられた感じやった。
「あんたに言うても、どうしようもないな。とにかくな、うちにはうちの信仰があるんや。自殺は罪やけど、自己犠牲 は天国への近道や。今まで道に迷うてて、八方塞 がりやったけど、今ここに来てとうとう、天国へ続く抜け道を見つけたえ」
ついてるわ、うちは、と、黒猫はしみじみ言った。
うちを食うて生き延びたらええよ、と。
そしたら、うちも、あんたの一部になって、暁彦 君とずっと一緒に居れるかもしれへん。ひょっとしたら、また絵も描けるかもしれへん。それが無理でも、とうとう赦 されて、天国へ行けるかもしれへん。どう転んでもトクなことばっかりや。
それに、あんたも死なんで済むやろ。生きていたいんやろ。
ちょっとの間、ここの家族やってて、うちも思うんやけどな。暁彦 君はあんたのことが、ほんまに好きみたいやわ。
うちと過ごしてた時には、もうちょっとまともな人やったえ。ええ格好 してはったわ。
それは、要するに、その程度の気持ちやったってことやんね。うちに夢中になってたわけやないんや。
それはもう、しょうがない。しょうがないんや。頭下げて頼んだからいうて、人を好きになるわけやないやろ。きっと運命なんや、こういうものは。
暁彦君には、あんたが必要やと思う。せやから、うちの命をあんたにやるわ。それが、うちが暁彦君のためにできる、最高の献身 なんえ。
どうや、参ったか、冷血 の蛇 め。
そう言って胸を張る黒い猫を、俺は畏 れ入って眺 めた。
負けた。お前には。完敗 してる。
お前は俺が今までの長い生涯 で出会った、最高の女や。最高に献身的 。心映 えが、美しすぎる。
その反動で、顔がブサイクなんか。その逆やったら、きっとお前は幸せやったろうに。
けど俺は、そんなブサイクなお前のほうが好きや。クレオパトラや楊貴妃 よりも、きっとお前のほうが美しいで。いや、本人知らんのやけどな。勝手なこと言うてごめん。せやけど、お前の心は、それくらい綺麗 やで。
死ぬことない。お前がアキちゃんを幸せにしてやり。時間かかるかもしれへんけど、お前が九回生きる間に、アキちゃんかて立ち直るやろ。俺はもう、そのお気持ちだけで充分。
「あら、そうか。ほんなら、死ぬんか。それはお気の毒やねえ。お悔 やみ申し上げます」
けろっとして言い、トミ子はまた、ひょいとベッドから飛び降りた。
後ろ姿を見せて、猫はこちらをちらりと振 り向いた。
「あんたをやっつけた、あの犬なあ。まだ生きてるえ。うち、テレビで観 てん。大阪で、人がいっぱい死んではる。それと暁彦君を、戦わせるて、お母様が言うてはる。命なくなるかもしれへんけど、それが筋 やしなぁ、て。きちんと責任とらなあかん。責任とって死ななあかんのやったら、それが運命どす、って」
何言うとんねん、おかん。
死なな倒せへんような相手やないで。俺なら一捻 りなんやで。
アキちゃんみたいな初心者にやらせたらあかんわ。誰かおるやろ。おかんの式 を出せ。生前贈与や。
「おらへんようやで、亨ちゃん。戦えるようなのは、ぜんぶ、お母様のお兄ちゃんが戦争に駆 り出してしもたんやて。あんたが秋津家にやってきた、久々の武闘派 や」
トミ子の話に、俺は喘 いだ。
なんということや。俺さえ健在 やったら何でもないことが、生憎 この様 で、それでアキちゃん命懸 けやていうんか。下手 すりゃ、あの犬と心中 か。絶対許せへん。
俺は悔 しい。俺にあと、ほんのちょっとの力があれば、死んだりせえへん。アキちゃん助けて戦ってやれるのに。
俺はそういう目で、にやにや尻尾 振ってる黒い猫を見た。
お前、美味そうやなあ、と思って。
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