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10-1 アキヒコ
俺が呆 けてる間にも、世間 の時間は過ぎていた。
亨が駅で大怪我して以来の三日間、俺は生きた心地がしてへんかった。それでも実は、暢気 なもんやったんやって、亨が何とか助かって、ほっとしたところで、やっと気がついた。
四日目の、ずいぶん遅く目覚めた朝に、テレビをつけてみて、ほとんど全てのチャンネルで、猟奇的 な死と、蔓延 していく狂犬病のニュースが扱 われているのを見て、俺はやっと思い出したんや。
そういえば、そうやった。勝呂 も居 るんやってことを。
薄情 やな。自分でもそう思ったわ。
ずっと亨のことで頭がいっぱいで、亨が死んだらどうしようって、そればっかり考えてて、その他のことが頭から消えてた。そもそもの原因やった、勝呂 のことも。さらにその原因にある、自分のことも。
この三日間、枝葉 の事として頭から抜け落ちてた事のほうが、ほんまは俺が必死で悩まなあかんことやった。
おかんが言うには、騒 ぎの出発点にあるのは、俺が描いた疫神 の絵や。初めただの絵やったもんが、ほんまもんの疫神 になり、勝呂 に取り憑 いた。
それであいつは変になり、人を襲 うようになり、疫神 は狂犬病という形で、最初は大阪の街に現れていた。勝呂 が大阪に住んでるからやろう。
その後、狂犬病は、大学がある京都にも発生した。
白昼堂々 、あいつは人を襲 ってたのか。
勝呂 は時々、しんどそうに見える時もあったけど、それは単に、根詰 めすぎて疲れてるんやって、俺は思ってた。
どことなく具合 悪そうでも、勝呂 は割と平然としてたし、そのうち元気になってた。
体弱いやつなんかって、その程度にしか思ってなかった。見た目もちょっと、線が細うて、弱っちそうやったし。
なんであいつは、自分の具合 が悪いことを、誰にも相談してへんかったんやろう。ひとりで耐えてたんか。そういう話をするような相手が、一人もおらんかったということか。
俺が見る限り、あいつにはツレがいっぱいおった。
基本、無愛想 やのに、妙 に人懐 こいところもあって、それにあの見た目やったし、勝呂 が嫌いやという顔してたやつは、おらへんかった。男でも女でも、あいつには常に誰か群 れとく友達がおるみたいやった。
死んだ由香ちゃんも、その筆頭 やった。せやのに、その由香ちゃんが、友達やなかったっていうんやったら、勝呂 には実は、腹割って話せる相手なんか、一人もおらんかったんやないか。
でも、もしかしたら、あいつは、俺に相談してたんやないやろか。
そう思って思い返すと、そうとしか思えないような事も、いくつかあった。
具合 が悪いという話を、勝呂 は時たま俺にした。ただの愚痴 めいた世間話 やと思ってた。
疲れてるんやったら、無理せんと、帰って休めって、俺は返事してたと思うわ。だって他に、なんて答えるんや。
大丈夫か、どこがどう悪いんやって、相手が亨やったら普通に訊 いたと思う。
けど俺は、勝呂 を警戒してた。自分があいつに、変な気があるような気がして怖かったし、あいつも時々、じっと俺を見つめてた。
たまたま二人っきりになったときに、何か突っ込んだ話に流れるのが嫌で、あいつが甘えたそうな顔すると、俺は全力で話逸 らしてた。
自分がそういうのに弱いっていう自覚があったんや。俺が助けてやらなあかんていう、そういう感じに。
こいつ、ほんまは別に具合悪いんやのうて、話の口実なんちゃうかって、内心思ってた。
きっと嘘ついてんのや。飲み会のときに、本間君、うち悪酔いしてしもた、夜風にあたりたいから、こっそり連れ出してって囁 いてくる女みたいなもん。
ああ、そうなんや、可哀想 やなあ、大丈夫かって、真 に受けて連れてってやって、その後、どうなる。抱きつかれて、キスして、それでお持ち帰りやろ。どうせ。
そういうのは、俺はもう、やらへんねん。俺には亨が居るし、あいつが好きなんや。他のやつの面倒なんか見いへん。みんな自分で何とかしろって、そういう卑屈 というか、逃げ腰というか。自意識過剰。
要するに俺は、甲斐性 無しやってん。
もしも勝呂 が俺に相談したときに、もっと親身 に話聞いてやってたら、さっさとあいつの正体 とか病気とかに気がついて、おかんに相談してたかもしれへん。そしたら、亨が助かったみたいに、あいつも助かったんかもしれへん。
亨に取り憑 いてた疫神 は、確かに元は俺の絵やったけど、人の血肉を食らううちに、どんどん力を増してて、今やほんまもんの性悪の神さんや。人が狂犬病やら人食い事件の怪異 に震えるのを力にして、ますます強力になってる。
それに取り憑 かれたせいで、亨はあっと言う間に死にかけてたらしい。
せやけど勝呂 が初めに取り憑 かれた時期には、きっともっと話は簡単やった。あいつが最初のひとりを噛 む前に、俺が何とかしてやるべきやってん。
あいつ、なんではっきり言わへんかったんやろ。自分は人間やないって。
そんなこと、ほのめかしもせえへんかった。ずっと人間のふりしてた。自分もひとりっ子で、大阪に親と住んでるって言うてた。
亨に親がおるという話は聞いたことない。人でなしにも親はおるんか。それとも、あれは、勝呂 の嘘で、親なんかおらへんのか。嘘 の電話と、ひとりで喋 ってたんか。
そういう想像をすると、なんでか俺は、嫌な気分やった。胸苦しいような。切ないような。
あいつには、ほんまに誰もおらんのやないか。ほんまにひとりで死にかけてる。死にたない言うて、人を食ってる。
それでも、いつかは死ぬやろ。そうやって怪物そのものみたいになって、それでも生きていくつもりか。そういうのを、昔の人はな、鬼と呼んでたらしいで。
鬼退治 せなあかんえ、と、おかんは俺に念押 しして言った。
その方法は、お父さんの手記 に書いてありましたやろ。アキちゃん、読んでへんのかて、ものすご咎 める目されたわ。
読んでへんかったわ、そんなもん。
おかんに、勉強しろ言うて渡 された、おとんの遺品 である手記 には、達筆 でいろんなことが書いてあった。
読むと、正直、なんのこっちゃっていう話ばっかりやったんや。
それに、これがおとんの肉筆 かと思うと気が滅入 ってきて、言い回しが古いこともあったりで、とにかく読みにくかった。
しゃあない、俺は課題で忙しい。家業 も大事やけど、学生の本分もあるしな、って、俺はまた激しく逃げてた。
せやけど、ここまで来たら、おかんの言葉やないけど、確かにもう逃げ場はないわ。
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