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10-7 アキヒコ
それからなあ。何て言うんやろ。こう言うしかないけど、それは避 けたかった。
おとんは俺の体ん中に入ってきた。まさに押し入るって感じやった。
指先からやで、一気に裏返るみたいに、するっと、ものすごい速さで、何かが自分の体に潜 り込んでくるのを俺は感じた。
ぎゃあって、俺は叫 んだような気がする。もっと違うふうやったか。それはこの際カット。
水煙 を握 る指に、もう一人誰か別の男の指が、ぴったり狂いないサイズで重なるのが感じられた。まるで、おとんに着られてるみたいな感じ。
その二重 に重なった指で、おとんは水煙 を握 り直した。そしてゆるりと立ち上がり、両手に剣を構 え、それを振 るった。
びいんと空気が震え、水煙 がまた笑った。
若い男はええなあ、って。
それはないやろ、俺かてまだまだ若い。大年増 のお前に比 べたら、赤ちゃんみたいなもんやろって、おとんは水煙 に愚痴 った。
そうやなあ、アキちゃんて、水煙 は猫なで声で答え、うっすらと水煙 を発した。
せやけど、お前のジュニアも気に入ったわ。当分こいつを助けたろ。初心 なところが、またええわって、水煙は喉 を鳴らす笑い方をした。
剣が笑うてる。俺はそれを、眉間 に皺 寄せて見てた。
窮屈 やってん。一人乗りの体に、ふたりで乗ってるんやからな。何か、むちゃくちゃ狭 い。
それに、自由がきかへんかった。体を動かしてるんは、おとんのほうで、俺はそれに操 られてる。争わずに剣を振るえば、そのぴったり寄り添 った感じが、何とも言えず、しっくり来たけど、相手は達人 、俺は中一で挫折 やからな、素地 が違う。
まさに、手取り足取りの世界やな。
おとんは、俄仕込 みの水煙 操作術を、俺に伝授 した。
終わる頃には、汗がぼたぼた床に落ちてた。
なんか、つらい。痛くも苦しくもないけど。なんというか。なんか。気持ちよくて。
勘弁 してくれ、おとん。俺にまで手を出すな。そこまでの変態レベルやないねん、俺は。ほんまや。俺は亨が好きなだけなんや。
たったそれだけのことを皮切りに、なんでここまでの変態地獄に堕 ちなあかんのか。
泣きたい。
そう思って、めそめそしてる俺を、おとんは、ああ久々にええ汗かいたわみたいな涼しい顔して見てた。
汗もかいてへん。神様やからな。そういうご不浄 とは無縁 なんやって。めちゃめちゃタダレた性格してるくせにな。
「お前、ほんまに声出さへんなあ。我慢 強いわ。ダディもびっくりやで」
ダディって言うな。
「アホか……我慢 もするわ。隣 に亨がおるんやで。何やっとんねんて思うやろ……」
何やってんのか説明できへんわ、そんなん訊 かれても。
何やっとんねんて感じや、自分自身でも。
亨には、水煙 が見えるんやろか。それともこれは、俺にしか見えてへんのか。おとんは、亨にも見えるのか。
今さらやけど、それは重要やで。
「水煙 も俺も、ただの人間には見えへん。でも、あの子には見えるやろ。声も聞こえてるはずやで」
居間 に出る扉を顎 で示して、おとんはにやにや言った。
なあ。聞こえてるよなあ、可愛い白蛇 ちゃんにもって、おとんは呼びかける口調で扉 に向かって言った。
その意味を、俺は数秒考えた。考えたらあかんて、そう思ったせいで、数秒かかったんや。でも、怖いもん見たさのほうが強かった。
誰か居 る。扉の向こうに、誰か居るでって、そういう予感がした。
それは予感やのうて、それを察知しただけやった。俺は自分の力や感覚の使い方を、今まで全然分かってなかった。せやけどそれも、おとんとの気まずいフュージョンによって、何だかちょっと掴 めてきてもうてた。
思わず駆 け寄って、俺は扉 を引いた。
勢いよく開いた戸の向こうに、ぎゃって顔した亨が立っていた。逃げ腰で。
「見たんか、お前!」
俺は思わず叫んでた。
「見てへん! 見てない。聞こえてもうただけ!」
逃げようとして俺に腕 掴 まれて、亨は悲壮 な顔でじたばたしてた。
「そんなら、なんでドア前にスタンバイやねん」
「だって気になったんや。アキちゃん大丈夫かなって。俺、心配やってん、それだけなんやで」
「心配ならドア開けて助けるもんなんやないのか普通!」
今さら普通について語り合っても、どうにもならへん。そういう世界にすでになってる。
それでも長年の習慣ていうのは抜けへんもんや。俺はこの期 に及んでもまだ、普通とは何かについて取りざたしてた。
「開かへんかったんや……」
「鍵 なんかかけてへん! 俺に嘘 つくな!」
言い訳してる亨に、俺はガーッと頭ごなしに言った。亨が腕掴まれたまま、床にへたってたもんやから、まさに頭から怒鳴 りつけるような感じやった。亨はそれに、ひたすら首すくめてビクビクしてた。
「その子は嘘 なんかついてへん。俺が閉めといたんや。結界 あるのも気づかへんのか、鈍いなあ、お前は。そんなガミガミ言わんとき、可哀想 やろ。お前のその様 、いかにもバカ殿様のお女中 無礼討 ちみたいやで……」
呆 れた口調で、おとんが部屋の中から俺を批評した。
その時俺は、亨の腕を掴 んでないほうの手に、抜き身の水煙 を握ったままやってん。
神殺しの太刀 やていう、その剣のことが、亨は怖いらしかった。けたけた笑ってる水煙 に、亨は小さくなってた。
哀 れっぽかった。確かに。
しまった、またやってもうたって、唐突 に後悔して、亨の腕を放してやりながら、俺はふと気がついた。
自分が亨より力が強くなってるらしいことに。
ちょっと前まで、亨が本気で俺に力業 をかけると、俺は抵抗できへんぐらい非力やった。たぶん、亨のほうが断然強かったんやろ。人でなしなんやしな。
でも今は、俺のほうが腕力強いらしい。
なんでやって、一瞬悩んでから、原因になりそうな事なんか、いくらでもあることに、やっと気がついた。
亨の血吸って、俺も人でなしになった。それに水煙 を握った手から、何か途方 もない力が流れ込んできてるようやった。
目を閉じればすぐに、もしかしたら閉じるまでもなく、いつだったかの夢の中で見た、黒々 と熱くうねる混沌 とした闇 が、神と鬼の世界が、この世界のすぐ隣 にあるのを、垣間見 ることができるような予感がする。
それは予感やのうて、俺にはそれが感じられるだけのことやった。
それのことを、常世 とか、あの世と呼ぶ者もいる。異界 やという者もおるやろ。この世とは違う、混沌 とした力の渦巻 く、別のどこか。それが神の国か、鬼の国かは、たぶん結論がない。それはきっと、似たようなものなんや。
そういう気がして、俺はふと、おとんを振り返った。
軍帽 を拾 い上げてたおとんは、にこにこして、俺を見つめ返した。
「まだまだ修行中の身やけど、お前はきっと、いい線行くで。俺のジュニアやからな。まあ、精々 気張 ったらええよ」
にこにこ言うてるおとんを、亨はぱくぱくして見上げてた。
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