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11-14 トオル

 (やさ)しい人やったで、あの人も。  俺のわがままを、()てしなく聞いてくれた。  生き()びるために俺が必要やったからや。  でもほんまに、それだけか。わからへん。  あの人はなんで、俺が描いてあるあの絵に、(おく)のつくような大金(たいきん)(はら)ってもうたんやろ。  あの人、もしかして、俺のこと好きやったんやないか。  俺はそれを、ほんのちょっと気に食わんところがあるから言うて、さっさと次の男に乗り()えた。どこの誰とも分からん、甘露(かんろ)(にお)う、顔が好きやった若い男に。  そいつが運命の相手やってベタベタに()れて、今こうしてここにいる。  でも、また何か些細(ささい)な気の向きで、突然(とつぜん)裏切(うらぎ)ることがないって、言い切れるやろか。  アキちゃんを置き去りにして、どこかへ消える。そういうことが絶対ないと、俺は保証(ほしょう)できるか。  そんなこと、考えてみたこともなかった。この半年、(せつ)ない恋に(おぼ)れてて。  アキちゃん、(はな)さんといててすがりつくのに必死で、俺は性悪(しょうわる)な自分の根性(こんじょう)のことは、ぜんぜん考慮(こうりょ)してへんかったわ。 「俺なら先輩を、外道(げどう)()としたりせえへんかった。ちゃんと人として、生涯(しょうがい)(まっと)うさせて、死ぬときは一緒に死んだわ。俺のほうが、先輩を幸せにできた。普通の人間として、人並(ひとな)みの幸せを……」  うるさい、犬。  ゆっくり(いじ)めて弱らせるだけって、そう心に決めてたはずが、気がつくと俺はキレてた。  一瞬でいろいろ想像できたんや。  俺がおらへんかったら、アキちゃんは普通に学生やって、絵描きにでもなったんかもしれへん。お(よめ)さんもらって、子供もできて、そんなありきたりの家庭に白くて可愛い巻き毛の犬が一匹飼われていますって、そんな(きわ)めて普通の風景や。  そこでアキちゃんは(じじい)になって死ぬ。それで終わり。  なんで俺は、永遠に生きなあかんのやろって、苦しむこともない。  もしも(よめ)や子供に先立(さきだ)たれても、なんでかやたら長生きな犬が、いつも(なぐさ)めてくれるやろ。好きやって、見返りは求めない、そんな感じの純愛(じゅんあい)で。  (いや)や。そんなのは。  そっちのほうがいいに決まってる。アキちゃんにとって。つらいことなんか何もない。きっとそうなんや。  アキちゃんの、幸福なゴールに続く運命の出会いに、ずるく横入(よこはい)りしたのは俺のほうなんとちゃうか。そして、何もかも、むちゃくちゃなほうへ変えてもうた。不幸な悲惨(ひさん)オチのほうへ。  (ちが)う。そんなわけないやろ。  (いや)な想像させやがって、この犬畜生(いぬちくしょう)め。  お前が憎い。お前なんか、おらんかったらよかった。今すぐ消えてくれ、この世から。アキちゃんと、俺の前から。  そんな(のろ)いを()きながら、俺はくわえて持ち上げた(いぬ)の体を、地面に(たた)きつけてめちゃくちゃにしてる途中(とちゅう)やった。まさに()()き。  殺したらあかんて、アキちゃんが(さけ)んでるのが聞こえた。  (とおる)、殺したらあかん、お前は今、悪鬼(あっき)形相(ぎょうそう)やって、アキちゃんが俺に教えた。  見られたわ、って、その一瞬で(われ)(かえ)ってなかったら、たぶん、勝呂(すぐろ)を殺してたやろうな。それは確実。  俺がビビって投げ出した(いぬ)の体は、ほんまにボロボロやった。元は銀色で美しかった毛並(けな)みも、すっかり血にまみれて見る(かげ)もない。  それでもあいつは、変転(へんてん)して人に戻った。残り少ない力やのに、なんでやって、俺は別に思わへんかった。  もう死ぬって、分かってたからやろ。せめて別れの挨拶(あいさつ)くらいは、アキちゃん(ごの)みの可愛(かわい)い顔で言いたいと、あいつも思ったんや。  俺も四日前、そう思ったみたいに。  水煙(すいえん)はもう、たらふく食ってた。  (おに)()って満足やって、げっぷしてたで。  悪食(あくじき)やな、兄さん。あんだけおった犬人間(いぬにんげん)、どこ消えたんや。  アキちゃんは見事(みごと)に無傷の体で、血相(けっそう)変えて()()ってきた。  俺やのうて、犬のほうにや。俺はその(わき)で、いつの間にか人の形に戻ってた。  無意識に対抗(たいこう)してもうたんかな。アキちゃん、俺の方がええよって。  でも、そんなこと言えるような気分やなかったわ。俺はもう、どうしたらええんやろって、怖くなって、がたがた(ふるえ)えてた。  アキちゃんは、なんでかそれに気がついてくれた。こっち来いって(こわ)い顔して()(まね)き、俺の(うで)引いて、(わき)に抱きかかえた。  なんかもう、俺と犬、山で遭難(そうなん)してて、たった今アキちゃんにレスキューされた二人連れみたいやった。  俺は蒼白(そうはく)でガタガタ(ふる)えてるし、(たお)れたままの勝呂(すぐろ)は、どう見ても死相(しそう)が出てる。 「苦しい……先輩。性悪(しょうわる)(へび)に、めちゃめちゃやられた」  それがおかしいみたいに、勝呂(すぐろ)はアキちゃんに感想()べてた。 「すみません、俺、なんでこんなことやってんのやろ。先輩の絵を、もっと見たかっただけやねん。ほんまにそれだけやったんです、初めは。それがだんだん、欲が出てきて……なんでやろ」  なんでやろって、朦朧(もうろう)と言いながら、勝呂(すぐろ)はアキちゃんに(かた)を抱かれてる俺を見上げてた。  (うらや)ましかったんやろ、お前は俺が。わからへんのか、自分では。 「すみません、もう、殺してください。死んだ方がましや」  でも、その前に、もう一個だけ、俺のわがまま聞いてもらえませんか。  俺のこと嫌いやなかったら。一滴(いってき)だけでええねん、俺も先輩の血飲みたい。(のど)(かわ)いてて、つらいんやって、勝呂(すぐろ)強請(ねだ)った。  (かわ)いたような顔やった。  そんなもん、飲ませてやったらあかんでって、俺は言うべきやったかな。  けど誰も、止めへんかったで。俺も、水煙(すいえん)も、猫のトミ子さえ、(わき)からひょっこり顔出して、痛そうに見てたけど、何も()()てせえへんかった。  アキちゃんは、へたってる俺を置いて立ち上がり、右手に(にぎ)ってた水煙(すいえん)に、悪いけど、使ってええかって()いた。  それに水煙(すいえん)は、かまへんで、俺も(たな)ボタでお相伴(しょうばん)するわって、くすくす笑って答えてた。  一滴(いってき)と言わず、いくらでも飲めっていう、そういう気分やったんやろ。アキちゃんは自分の左手首の、ちょい上くらいを、ためらいもなくざっくり切った。  みるみる血が(あふ)れた。せやけど因業(いんごう)な話やで。アキちゃんの体は、俺と血を混ぜたせいで、傷ができてもすぐ治るようになっとったんや。  せやからな、流れ落ちたのは、ほんの二、三(てき)で、勝呂(すぐろ)(かわ)いた(くちびる)に、ぽつりと落ちた赤い血は、たったの一滴(いってき)だけやってん。  せこいなあって、あいつは思ったんやろか。かすかに、にやっと笑ってた。  それでも血の気の()めた舌出して、美味そうにその血を()めてたわ。 「甘い……」  うっとり目を()せて、勝呂(すぐろ)はそれだけ言った。

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