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12-2 アキヒコ
でもとにかく、亨 が絵描いてる姿というのは、俺には意外すぎて、その画風 の妙味 と相 まって、亨の新 たな魅力 やった。
亨が黙々 と絵描いてるのを時々眺 め、教えてくれ言われて手取り足取り教え、出来上がっていく絵を目の当たりにしてると、それはもう、未 だかつてない甘い罠 の世界。
気は散 らへんけど、没入 する。紙と絵の具の世界に。あるいは、そこから沈み込んでいく、静かに燃えるような、絵の中の異界 に。
俺はその深いトランス状態のような気分の中で、一度は破 り捨 てた絵を描いてた。
一応は夏の課題にあてるつもりで、日本画にした。それなら亨と一緒に描いてても画材 が同じで都合がええし。
せやけど、後で考えてみたら、その絵は亨の見てる前で描くようなもんやなかったな。もう描いてもうたから、そんな反省しても意味ないけど、俺は白い犬の絵を描いたんや。
その絵はずっと夏中 、俺の頭の奥底にあった一枚やった。
その犬は、時にはじっと見つめ、時には甘えかかってきたけど、俺はずっとそれを描かずにおいてた。それが自分にとって、どんな絵なんか、向き合うのが怖くて。
でももう描かずにおれんて、そういう気がして描き上げたんは、すうすう寝てる犬の絵やった。
亨はそれを時々眺 めに来て、ものすご嫌みったらしい顔で、可愛 い犬やて言うてた。
俺はそれに苦笑したけど、なにも答えへんかった。異論 無かったこともあるけど、描いてると俺は、喋 らなくなる。集中してるんや。
そんな愛想 ない俺に、亨は何も文句言わんでいてくれた。
あいつは焼き餅 焼きやけど、それでもなんでか、控 え目なとこある。俺のおかんみたい。
綺麗 な顔して、えげつないぐらい怖くて強引。でもただじっと我慢 して、静かに待ってるようなところが、亨にはある。
おかんが待ってたのは、おとん大明神 やった。
おかんが抱えてた空洞 を、俺では埋 めてやられへんかった。
せやけど亨が待ってるのは俺なんやろうという、そんな気がしてた。
自分一人では完成しない絵の、欠けたところを俺が持ってる。ふたりでぴったり寄 り添 えば、欠落 のない一枚の絵に。
その空白を埋 めて、満たしてくれと求めるような、誘 うような気配 が亨にはいつもあって、俺はあいつを強く抱きしめる。
そうすると埋 まる何かが、自分にもあるような気がする。
それが具体的 にはなにか、なんて言って説明すればいいのか、俺には相変 わらず分からへん。口下手 やからな。
もっと何か甘いようなことを言えって、亨にはぎゃあぎゃあ言われるんやけど、それでも相変 わらずの無愛想 。
しょうがないねん、それはもう、ちょっとずつ進化 で勘弁 してもらわへんと無理。黙 りつづけた二十一年の沈黙 を破 って、ころっと口の上手 い男にはなられへんねん。
もう、その話はやめよ。恥 ずかしいから。次の話題です。仕事の話。
疫神 の絵から始まった俺の不始末 は、大阪での長い一日によって、とりあえず解決した。
それでも、それが全部やなかった。狂犬病 が残っていたし、俺は幸 い、それをひとりで解決することができた。
例 のごとく、ご馳走 の絵描いて、こっちへどうぞと二次会に誘 う。それで疫神 たちは大人しく移動。そんな無難 なルーチンワークで、次から次へ病院巡 り。
病気のもとが消え去っても、すでに蝕 まれたもんが治せるわけやない。
狂犬病 は人の神経を食う病 らしい。助かっても、重い後遺症 が残る人もいた。
それでも生きてたって、家族の人たちは泣いて感謝 してくれた。
俺のことを先生と呼んで、涙 ながらに縋 り付く人たちが。
俺にはそれが、後 ろめたかった。もともと俺のせいなんやって、土下座 して詫 びなあかんのは、こっちのほう。
それでも、それについては、黙 っとかなあかんえと、おかんに釘 を刺 されていたし、亨や水煙 も、折 に触 れて忠告 してきた。
知っても恨 みが残るだけ。知らぬが仏や。
死ぬはずやったもんが助かった、嬉 しかったと幸せに思ってもろて、この先の人生を恨 みを抱 えずに生きていってもらうほうがいい。お互 いのために。
恨 みは人を鬼に変えるし、恨 まれれば弱る。いいこと、ひとつもあらしまへんえと、おかんは平気な顔や。慣 れたもんやというところか。
それも修行 のうちやというんで、俺は堪 えた。自分はずるいんやないかという自責 の念 に駆 られ、何度か口が裂 けそうになったけど、でも結局 黙 ってた。
それは俺の堪 え性 と、打算 と、気の弱さ、そんなもんのない交 ぜになった結果やねん。
お大事にと挨拶 して、謝礼 をとらず帰る俺を、人は善人 を見る目で崇 めるように見送ってた。
でも、ほんまの俺の正体は、罪人 やねんで。大勢 死なせた罪業 が重くて、身動きとれへんような気がするときもあった。
誰か俺を責 めてくれって、そんなふうな気分でいたな。
せやから、由香 ちゃんのお母さんが、お前のせいやて泣き叫 んで、俺を罵 った時には、腹はぜんぜん立たへんかった。むしろ感謝 してたくらいやったで。
絵を描きながら気を鎮 めて、急いでやらなあかん事から、俺は片付けてた。それは生きてる人を助けることのほうで、もう死んでしもてた人たちへの挨拶 は、ずいぶん後回しになってもうてた。
由香 ちゃんには、合わせる顔がない。なんて言えばええんやっていう気後 れも、正直あって、俺は逃げてたんかもしれへん。
それでも仕事の順番が巡 ってきて、もう行かなあかんて覚悟 決め、気合い入れて新調 したスーツ着て、俺は由香 ちゃんの家に行った。
勝呂 と同じ、大阪の子やった。
お前が殺したんや、そうに違いないって、由香 ちゃんのお母さんは鬼みたいな顔で泣きながら、俺の襟首 つかまえてた。
そうです、すみませんと、俺は言いたかったけど、ただ詫 びただけやった。
由香 ちゃんのお父さんも、俺に詫 びてた。妻はまだ錯乱 しているんですと説明して。
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