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第2話
公園の片隅に置かれたベンチで、その人は背中を少し丸めて本を読んでいた。
木の葉の影がゆらめき、薄い紙の上にすべり落ちる。細い銀色のフレームの端で、ちらちらと日の光が反射していた。上からさらりと流れる髪を、時折控えめに押さえている。
足元には、大きな犬がゆったりと寝そべっていた。両足に顎を乗せ、飼い主の呼吸に合わせて静かにまどろんでいる。春の柔らかな風にひくひくと動く鼻が、近づいた浩之の気配をいち早く嗅ぎとったようだった。
「隣、いいですか」
浩之の声に顔をあげた男は、眼鏡の奥でまぶしげに目を細めた。「ああ、どうぞ」と小さく微笑み、少しだけ身体をずらす。犬は顔も上げずに視線だけをこちらに向けて(まぁ、いいだろうと鼻を鳴らしたようにも見えた)、再びまぶたを閉じた。
広々とした公園は、子どもたちがブランコを取り合ったり、滑り台から次々と飛び出してきたりと賑やかだ。だが、甥の葵は浩之の視線の先で、一人黙々と砂を掘っている。
自分に似てしまったのかもしれない、と浩之は考える。元々多忙な義兄に加えて、本格的に復職した姉が家を空けることが多くなった。寂しい思いをしているに違いないが、小さな甥は大抵聞き分けが良く、それどころか一人遊びが好きで、どこか職人気質だった。
きょろきょろとあたりを見渡している葵に向かって、浩之は手を上げた。
「ワンちゃん、寝てるの?」
近づいてきた葵が、おそるおそるといった様子で浩之に小声で尋ねる。
犬の反応は、浩之のときとは全く違った。素早く上半身を起こし、すんすんと鼻をひくつかせる。大きな目で葵をじっと見つめながら、ふわふわの尻尾をゆらりと動かしている。
「タロウ、脅かしたらダメだよ」
あまりにも静かだったせいで、浩之は隣に男がいることを忘れかけていた。タロウと呼ばれた犬は背を撫でられ、満足気に首を伸ばす。
「アオも触っていい?」
葵の言葉に男は笑ってうなずいた。
小さな子どもと大きな犬というのは、どうやら仲間意識が生まれやすいらしい。視線の高さが近いからだろうか。タロウは葵のことを、すでに自分の弟だとでも思っているように見える。
初めは恐々と撫でているだけだったはずが、葵はもふもふと柔らかな首筋に抱きついて楽しげな声を上げていた。
「すみません、お邪魔してしまって」
浩之は、本を閉じて和やかな光景を眺めている男に声をかけた。
「いえ、タロウも遊び相手ができて嬉しいようです。普段は僕とこうして散歩するくらいで、きっと退屈していたと思いますから」
男は木ノ下と名乗り、この公園から歩いて二十分ほどのところに住んでいると言った。この町に越してきてから、それほど月日が経っていないらしい。一人暮らしなのだろうか。本の上に置かれた木ノ下の白い指を見る――指輪はない。だからと言って独身とも限らないだろう、と浩之はとりとめもなく考える。
「ここのベンチはちょうど木陰になるから、散歩中の休憩にはちょうど良いんです。でも、僕みたいな男が公園にいるというのは、どうも気まずくて」
「わかります。俺もあっちにはいけないですから」
視線で示した斜向かいのベンチでは、若い母親たちが話に花を咲かせている。そんな公園の片隅で、浩之と木ノ下はどこか浮いた存在だった。ちらちらと投げられる視線には、好奇心だけではなく警戒心も入り交じっているのがわかる。
「木ノ下さんがいてくれて良かったです。それに甥はこういうところであまり友だちを作ろうとしないのですが、タロウとはあんなに仲良くなって驚きました」
「甥?」
木ノ下が小さく首を傾げた。その仕草が最初の印象よりも幼く見えて、胸の奥がふわりとくすぐられる。
「……ああ、甥は――葵は、姉の子どもなんです」
「そう、だったんですか。てっきり親子だと思ってしまいました。あなたはとても落ち着いているし……」
「昔から老け顔だとよく言われます」
「あ、いや、そういうわけでは……」
木ノ下は指先でえりあしに触れながら気まずそうに眉を下げた。浩之は慌てて「冗談です」とぎこちなく笑顔を作る。ほっと息をついた木ノ下の表情に、再び落ち着かない気分になった。
さりげなく犬と無邪気に遊ぶ甥へと視線を逸らす。ベンチの脚にくくりつけられたリードがぴんと伸びた先で、小さな塊が転げ回っている。
「姉夫婦が仕事で家を空けるときには、こうして時々預かっているんです。俺は気楽な独り身なので」
ちらりと木ノ下のほうを横目に窺うと、うなずきながら同じように葵とタロウを眺めていた。口元には優しい笑みが浮かんでいる。
「僕も、今は独りだから楽なものです。ああ、そう言うとタロウに怒られるかな」
そのとき、穏やかなヴァイオリンの音色が公園の上空に響き渡った。時計の針は、ちょうど十七時を指している。母親たちが子どもを呼ぶ声に、遊具が軋む音が重なる。
「蛍の光って、もとはスコットランドの民謡だって知っていました?」
鞄に本をしまいながら、木ノ下は唐突に切り出した。
「別れの歌というよりも、古くからの友と、過ぎし日々を懐かしみながら変わらない友情の酒を酌み交わす、というような歌詞なんだそうです」
「そうなんですか」
「ええ。そう知ってからは、この曲を聴いても寂しくならなくなった気がします」
まるで秘密を打ち明けているように話しながら、木ノ下がひっそりとはにかむ。
「ヒロー?」
葵が正面から浩之の顔を覗きこんでいた。車の絵が描かれた赤い服が、すっかり砂まみれになっている。
「ああ……もう帰らないとな」
「うん! ごはん!」
木ノ下が隣でふふっと笑いをこぼした。
「葵くんがたくさん遊んでくれたから、タロウもお腹が空いたみたいだよ」
「タロウもごはん食べるの?」
「そうだよ。お家に帰って、いっぱい食べさせてあげないと」
ふうん、と葵はつぶやき、「また遊べる?」と不安げに尋ねた。
「休日は、大体同じ時間にタロウと散歩をしていますが……」
木ノ下が困ったな、というように浩之と葵を交互に見た。
「もし差支えなければ」と、言葉が自然と口をついて出てくる。
「連絡先を教えていただけますか。葵はいつも俺の家にいるわけではないので、来るかもしれないと気を遣わせてしまうのも悪いですし……」
浩之は自分でも驚いていた。ついさっき出逢ったばかりで、よく知りもしない男に連絡先を訊かれるなんて、気味が悪いと思うに違いない。
そう思ったのに、木ノ下はあっさりと承諾した。犬と子どもの威力は絶大だ。
「いつでも連絡してください」と微笑みかけられ、思わずうなずく。
「タロウも待っていますから」
木ノ下はリードを手にして立ち上がった。浩之は無意識に木ノ下の足元を見る。明るいキャメルの革靴の、踵の部分がわずかに歪んでいた。浩之は出てきそうになった言葉をぐっと飲み込む。
「川嶋 さん?」と木ノ下が教えたばかりの名前を呼ぶ。
「え、あ……こちらこそ、葵とまた遊んでやってください」
「はい。それでは、また」
バイバイと言う葵に小さく手を振り、木ノ下はタロウに声をかける。
タロウは何かを見透かしているかのように浩之のほうをじっと見た後、ふらりと尻尾を一振りして去っていった。
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