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第3話

 いつの間に、これほど空が高くなっていたのだろう。透きとおる青に、薄くのばした綿あめのような雲がふわりと浮かぶ。長く緩やかに曲がる河川敷をゆっくりと歩いていると、柔らかな風に乗って、どこからか甘い香りが漂ってきた。 「もしかして金木犀ではないですか?」  ありがとうございます、と律儀に言いながら、木ノ下は浩之が買ってきたペットボトルを受け取った。 「公園にも咲いていましたよ。最近は、夜の散歩中でも香りが漂ってきます。良い香りですよね」  木ノ下は軽く目を閉じて、胸を膨らませてたっぷりと息を吸う。見下ろす角度から長いまつ毛が見える。と考えたところで、まぶたがぱちりと開き、照れくさそうに笑った。 「さすがに、ここまで香ってはこないですね」  そう言った後で、日本には四キロメートルもの距離に香りが届くような、大きな金木犀の木があるらしい、と話し始めた。その姿を見て、浩之は思わず頬が緩みそうになるのを堪える。  木ノ下は普段は物静かな方だ。だが、ゆったりとした会話の中で、そういえば、と小さな雑学がぽつぽつと披露される。浩之はそれほど喋るほうではないし、木ノ下ほど物を知らない。だから、いつも聞き手に回って感心にうなずくだけだ。 「また話しすぎてしまいました。つまらないでしょう?」  いつもこうではないのに、と木ノ下は少し恥じたように苦笑する。浩之は「つまらなくないから、もっと話してください」と応える。  これが、この数ヶ月で出来上がった二人のパターンだ。 「アオ」  ボールを転がして遊んでいる甥を呼ぶと、タロウが寄り添うようについてくる。 「タロウは自分が呼ばれたと思ったのかな」  葵に向かって手を振りながら木ノ下が笑う。 「アオとタロウって音が似ているから」 「いや、あれは保護者のつもりでしょう」  飛び込んできたタロウを受け止めると、木ノ下は背中から腹にかけて流れるふわふわの毛を思い切りかき混ぜた。そんなとき、彼は無防備にくしゃりと笑う。目尻に浮かぶ皺を見ていると、喉の奥に蜜のようなとろりと甘い感覚が広がる。浩之はいつもそれを、人知れずこくりと飲み下す。 「そうだ。修理していただいた靴、おかげでとても歩きやすくなりました。ありがとうございます」  すでに何度も訪れたことのある玄関には、見慣れたキャメルの革靴が踵をきちんと揃えて置かれていた。丁寧に磨かれた革の表面はしっとりと艶やかだ。  浩之は従業員三人という小さな工房の、靴修理職人の一人だ。  一ヶ月前、浩之は木ノ下に提案して自分の職場へと靴を持ち帰った。公園で出逢ったときから、わずかだが踵の歪みが気になっていたのだ。  店に「CLOSED」の看板をかけ、木ノ下の靴の修理に取りかかった。灯りを傾けて全体を眺める。革は柔らかくしなり、色は深く皺にも味わいがある。自分でも手入れをしながら、すでに何度か修理をして、長く大切に履いているのがよくわかった。  靴は、持ち主の人柄がよく現れる。  木ノ下は言葉や動作のひとつひとつが丁寧で綺麗だ、と道具を手に取りながら浩之は考える。几帳面だが、かといって神経質というわけではない。まとう空気はいつも穏やかで、何より愛情が深いのは、タロウや葵に対する仕草から伝わってくる。  そんな彼が、なぜ「離婚」という選択をすることになったのだろう。浩之はずっと、このことを訊けずにいる。    この家に引っ越してきたのは、タロウと一緒に暮らすためだと言っていた。親しくしていた近所の老人に飼われていたタロウが、老人の突然の死とともに、保健所へと連れていかれそうになっていたところを引き取ったのだという。  築三十五年という家は、外観はシンプルだが少しだけ古さを感じる。中央に玄関があり、左手には和室、右手には広々としたフローリングのリビングがあって、大きな窓からは直接庭に出ることができる。上がったことはないが、二階には小さな部屋が三部屋もあるらしい。最初に訪れたときの感想としては、「一人で住むには広すぎる」だった。 「葵くんは、和室に寝かせてあげましょうか」  河川敷からの帰り道、葵は浩之の腕の中で糸が切れたように眠ってしまった。だらんとぶら下がる葵の小さな足に、タロウがふんふんと鼻を寄せる。  葵を寝かせてリビングへ向かうと、タロウが窓際の定位置でゆったりとくつろいでいた。弟分に振り回されて、さすがにくたびれたように見える。 「なにしているんですか?」  シンクの上の戸棚に手を伸ばし、扉を開いて覗き込んでいる木ノ下に声をかけた。 「茶葉を探しているんです。確か貰い物がどこかにあったはずなのですが……」  浩之の位置からは、上の段に小さな箱が置かれているのが見えた。古く黄ばんだ棚の塗装に、箱の真新しい白色が浮いて見える。 「あ……」  浩之は背伸びをする木ノ下の背後に回り、箱を掴んだ。 「ありがとう、ございます」  浩之の顎の下に、木ノ下の丸い頭がある。箱を手渡し、シンクの縁に両手を置いた。木ノ下の肩がぴくりと震える。 「川嶋さん……?」  振り向いていいのか迷っているようだった。浩之は自分の腕に囲まれている木ノ下を見下ろす。  抱きかかえた葵を受け取るとき。一緒にタロウの柔らかな腹を撫でるとき。ゆらりと湯気が浮かぶマグを手渡すとき。幾度となく指先が重なった。視線は、柔らかく絡みあう。  走り去る車を避けるとき。突然雨に降られたとき。ソファに並んで季節の移り変わりを眺めているとき。触れた肩から優しい熱が伝わる。  だが、木ノ下との間には、どこか薄い膜が張られているような、目に見えない隔たりがあった。今もそうだ。たった数センチが、ひどく遠い。  もどかしい、と思っているのは自分だけなのだろうか。時折目元に浮かぶ寂しさを、取り除くことはできないのだろうか。 「木ノ下さん」  目は伏せられたまま、木ノ下の顎がわずかに横を向く。唇は薄く開いている。  浩之の胸に薄い背中が触れる。木ノ下の眼鏡の縁が頬骨に当たるのも構わなかった。熱い吐息が重なり合う。  それは一瞬の出来事だった。  浩之を見上げた木ノ下の顔が、見逃しそうなほどわずかに歪む。泣きそうだ、と思ったときにはすでに、感情がするりと抜け落ちていた。 「木ノ下さ――」 「帰ってください」  そっと身体を後ろへ引く。木ノ下は浩之に背を向け、動こうとしない。 「ごめんなさい。でも、もうここには来ないでください。あなたも……葵くんも」    静まり返った空間がひどく息苦しく感じる。木ノ下が全身で浩之の気配を拒絶しているのがわかる。  浩之は黙って踵を返した。なにかを察したのか、タロウが小さく唸り声を上げる。まだぐっすりと眠る葵を抱き上げ、足早に家を出た。  ふらふらと歩き続ける。  間違っていたのだろうか。もう何度も、頭の中でそう繰り返している。ごめんなさい、と言った。一体何に対しての言葉なのだろう。  いつの間にか賑やかな商店街に来てしまっていた。黒やオレンジ、紫などの奇抜な色で店という店が飾られている。『ハッピー・ハロウィン』と書かれたポップな文字が、ささくれ立った心を余計に刺激してくる。  ポスターには、『お菓子をくれなきゃ、いたずらするよ!』と楽しげに言うかぼちゃのキャラクターが描かれていた。浩之は黙ってそれを見つめたあと、かぼちゃの丸い鼻を指先で弾いた。  

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