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第4話

「といっく、おあといーと!」  きっと、玄関の覗き穴からは葵の満面の笑顔が見えているだろう。浩之は自分の姿を隠すように葵を抱え上げている。滑稽だ。いっそのこと笑ってほしい――彼が笑ってくれるなら、どれほど良いだろう。  薄い扉の向こう側から、タロウがワンッと一声吠えた。 「あ、タロウだ!」 「アオ、落ちるぞ!」  思わず声が大きくなったことに気づき、口をつぐむ。そのとき、カチリと音を立てて扉が開いた。 「といっく、おあといーと!」  難しい顔で何かを言おうとしていた木ノ下は、一瞬呆気にとられ、力なく笑った。 「お菓子が欲しいのかな?」 「うん! あとね、タロウと遊ぶの!」 「ええと……じゃあ、お菓子を探してくるから、中でタロウと遊んでいてくれるかな」  浩之はじたばたと暴れる葵を下ろした。木ノ下の後ろにいたタロウへと、葵が転げるように突進していく。その様子を見送り、微笑んだ木ノ下が視線を上げた。 「葵くんを使うなんて、ずるいですよ」 「そうでもしなかったら、会ってくれなかったでしょう」 「……そうですね」 「どうして!」  語気が強くなるのを抑えられなかった。すみません、とぼそぼそと謝ると、木ノ下はため息をついて首を振る。 「ここで話しても仕方がないですから……入ってください」  リビングはいつもと変わらず、ひどく広々としていた。小さめのテレビ、その斜向かいに置かれたダークブラウンのソファ、カフェテーブルの端には本が数冊。窓際にくしゃりと置かれたタロウの毛布だけが、無機質な部屋の中で温度を感じる。  葵は自分で窓を開けたのか、タロウと一緒に庭に出ていた。葵を咎めようと口を開きかけたが、木ノ下が大丈夫だと言うように首を振る。庭から直接外には出られないようになっていた。ソファに座れば、大きな窓からは戯れる一人と一匹の姿がよく見える。 「木ノ下さん、あの――」 「川嶋さんは、男性が恋愛対象なんですか」  浩之の言葉を遮り、木ノ下は一息に言った。浩之が頷いたのを見て、落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。 「訊いても、いいですか。その、いつからそうだと……」  木ノ下がまるで迷子の子どものように見えた。不安に押しつぶされて足がすくみ、途方にくれている。 「ぼんやりと自覚したのは、中学生のときです。周りが女子がどうだとか騒いでいるときでも、俺は違うものが欲しかった」  浩之が初めて自慰を覚えたとき、頭に浮かんだのは同じ弓道部の男の先輩の姿だった。華奢で色が白く、弓を構える凛とした横顔――達する瞬間、その人は浩之の脳内で弓道着をはだけさせられ、上気した肌をさらしていた。罪悪感もあったが、すとんと腑に落ちたような、奇妙な感覚だった。 「怖く、なかったんですか」 「怖い?」 「だって、そんなことは普通じゃない。男が好きだなんて、誰にも言えない。一生誰にも理解されないまま、独りで生きていかないといけないかもしれない。そんな不安はなかったんですか」    はりつめた空気の中で、浩之は「不安が、なかったわけではありません」と静かに応えた。 「俺の場合は、姉が……葵の母親が、あるとき突然、男が好きなのかと訊いてきました」  浩之の言葉に、木ノ下がぎょっとしたようにわずかに身を引く。 「もちろん、すぐには答えられませんでした。いくら姉弟でも言えないことがあると、さすがに憤りましたよ。でも、姉は『好きな人と一緒に幸せになれるといいね』と言ったんです。『あなた自身も幸せにならないといけないんだよ』とも」 「……良いお姉さんですね」 「そうですか? じゃあどうしたらいいんだと言ったら、そんなことは自分で考えろって言われましたけどね」  わざと呆れたようにため息をつくと、木ノ下もわずかに目元の緊張を緩める。 「どうしたら姉の言ったような『幸せ』になれるかなんて、まだわかっているわけではありません。口で言うほど簡単なことではないことも、わかっている。でも、自分と、相手と向き合って、二人で一緒に答えを探していけたらいいと……一緒に乗り越えてくれる人と出逢えたらいいと、俺は思いました」  浩之は木ノ下へと向き直り、まっすぐに見つめた。木ノ下の瞳が驚きと怯えの色の間で揺らぐ。こらえきれなくなったように視線をそらし、「あなたは強いですね」とつぶやいた。 「僕は……僕は駄目でした。認めてはいけないものだと思い続けていた。だから、勧められるままに結婚もした――でも、彼女を本当に愛することはできなかった。どれほど詫びても、後悔しても済まないことです。そんな僕がこれ以上何かを望んではいけない。もう充分なんです。タロウを引き取って、静かに暮らしていければ、それで……」  両手で顔を覆い、うなだれる。丸められた背中が震えていた。 「それでいいと、思っていたのに」  かぼそく、今にも消えそうな声だった。くぐもったその音が、浩之の胸の奥を激しく揺さぶる。 「木ノ下さん」  浩之は木ノ下の骨ばった背中に手を添える。 「悔やみ続けてもいい。でも、それはあなたが幸せになってはいけない理由にはならない」 「でも――」 「ケンカしてるの?」  幼い声に、二人同時にびくりと跳ねた。 「あのね、ケンカしてもね、ぎゅーってして大好きだよって言ったら、また仲良しになれるってママが言ってたよ!」  葵は無邪気に笑う。姉に似た黒々と大きな目が、今にもこぼれ落ちそうだ。 「ねえ、ヒロもタロウのパパのこと大好きでしょ?」 「ああ……そうだな」  浩之の隣から、ひゅうっと息を呑む音がした。 「じゃあ、ぎゅーってして、仲直りしなきゃ!」 「へ……?」  木ノ下の間の抜けた声に、葵が不思議そうな顔をする。 「……アオ」 「なあに?」 「タロウがおもちゃで遊んで欲しそうにしてる」 「ほんとだ!」  ぱたぱたと跳ねるように再び庭へと駆けていく小さな使者を見送り、浩之は木ノ下のほうへと身体を寄せた。 「か、川嶋さん? もう葵くんも見ていないじゃないですか! そんなことしなくて――」 「好きなんです、木ノ下さん。……幸せになる方法、俺と一緒に探してくれませんか」  腕の中で、木ノ下はひどく緊張しているようだった。それでも、前のように冷たく突き放すような気配は感じられない。浩之はそのこわばりをほどくように、背中に回した手に優しく力を込める。 「今すぐに応えてくれとは言いません。ただ、考えていてほしい」  長い無言に不安になって身体を離すと、逃げるように顔をそむけられた。耳の端が朱色に染まっている。 「仲直り、でいいですよね?」 「え?」 「葵は誰に似たんだか、結構しつこいんです。ちゃんと仲直りしたのかって、あとで絶対に訊かれる」  木ノ下は一瞬呆けたように動きを止め、泣きそうな、困ったような、それでもいつもの穏やかな笑顔を浮かべた。今はこれでいい、と浩之は考える。ゆっくりと、手探りでいいから、二人だけの答えを見つけたい。  二人の時間は、たった今動き始めたばかりだから。

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