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07 蛙の子は蛙〈2〉

「雀谷君、改めましてこちら妻の椿(つばき)です。美人でしょう」  顔は全然似ていないから兄妹ではないのだろうとは思ったがどうやら本当に奥方だったようだ。  綺麗だと、本当にそう思ったから素直に同意すると椿は口元を手で隠すようにして照れ笑いを浮かべる。 「初めまして、いつも白岡教授にはお世話になっております。日本思想史ゼミ二年次の雀谷利人と申します。この度はお招きいただきましてありがとうございます」  お口に合えば良いのですが、と紙袋から取り出した包みを差し出すと、椿はまあご丁寧にと白魚のようなしなやかな手で受け取る。 「話には聞いていたけれど、雀谷さんは本当に律儀で真面目な方ね。今回は無理を言ってしまってごめんなさい。でも、雀谷さんにはずっとお会いしてみたかったの」  え、と目を見張らせ白岡を見る。夕飯の支度をする為に椿が下がり二人きりになると、利人は戸惑いの視線を白岡へ向けた。 「あの、白岡教授。今回の事は教授の発案かと思っていたんですが違うんですか」 「違うね。いやあ、椿さんが君に会いたいとあまりにも熱心に言うものだから叶えてあげたくてね。僕も一度君に彼女の手料理食べてほしかったし、丁度良い機会だよね」  ね、と白岡は満足そうにしているが利人は納得していない。  何故教授の妻ともあろう人が自分に興味を抱くのか。 「……教授、俺の事何か話しました?」  ずっと、と彼女は言った。つまり利人の存在を知ったのは最近の事ではないという事だ。 「話したよ」  色素の薄い瞳が真っ直ぐ利人を見据える。  その瞳が一瞬深い色に染まり、どきりとした。けれど瞳はすぐにいつもの色へと戻る。 「可愛いくて面白い生徒が出来たって。椿さん、気に入った子に手料理を振る舞うのが好きなんだ」 「可愛くも面白くもないですし、そもそも初めて会うんですから気に入られる要素がありません」 「そんな事はないよ。与えられる情報だけで好意を持つ事はある。雀谷君の一生懸命なところとか男の癖に家庭的なところなんか椿さんは好きだと思うな」  乾杯しよう、と白岡はお猪口のように小さいグラスを掲げ、利人も傍にあった同じグラスを掲げてこつりと縁を合わせる。割っているのかアルコールの低い梅酒は甘さ控えめですっきりと利人の咽喉に馴染んだ。 (そうかな)  白岡はまるで椿が利人を好んでいるかのような言葉を口にするが、むしろあるとしたらそれは逆の感情ではないだろうか。利人の身体は僅かに火照り出し、脳がとろりと優しく記憶を引き出す。  思い出されるのは白岡と交わされる夜の行為だ。  君が心配する事は何もない。妻は怒らないし、家庭が壊れる事もない。これはそういうのじゃないからと、彼は言った。  それでも普通の家庭で清く正しく育った利人はこの関係をおかしいと思う。  幾ら白岡が平気だと言っても、自分以外の人間が夫とセックスしていると知ったら妻は良くは思わないだろう。普通に考えればそうである筈なのだ。  本当は拒むべきなのだろう。利人とて何も好き好んでこの状況を受け入れている訳ではない。  でも、拒み切れない。  その時、すぱんと背後の襖が開かれた。数分前用を足しに行った白岡が戻って来たのだろうかと振り返った利人はそこにいる人間が知らない少年だと気づき瞳を見開かせる。 「あ、っと、お邪魔してます」  瞬時に悟った。この少年は白岡の息子だ。  母親譲りの癖ひとつない黒髪に父親譲りの切れ長の瞳。あまりにも綺麗な顔立ちをしているからついじっと見つめてしまうも、彼もまた食い入るように利人を見つめ返していた。  ああそうか、自分の家に見知らぬ他人がいるから驚いているのか。そう思い口を開き掛けると利人より先に少年が喋り出した。 「あんた、あの時の……」  少年は独り言のようにそう呟き眉を顰める。 「え?」  予想外の反応に利人は戸惑う。それは一体どういう意味なのか。  けれど少年の背後からひょいと白岡が現れ、答えを訊くタイミングを逃す。 「(ゆう)、帰ってたのか」 「父さん。……ああ、遊びに来るって言っていた教え子の人、この方なんですね」  怪訝そうな表情を見せていた少年の顔がふわりと柔らかくなり、利人に視線を戻すと膝を折り曲げてきちりと座った。利人も慌てて少年と向き合うように膝を向けて座り直す。 「初めまして、父がいつもお世話になっております。息子の夕です。先程は驚かせてしまってすみません、大学のお客さんがいらっしゃるのをすっかり忘れていて」 「いえ、こちらこそお邪魔しています。雀谷利人です」  丁寧にお辞儀する夕に続いて利人もまたぺこりと頭を下げる。  ぱちりと目が合うと、夕は黒目がちな瞳を細めてふわりと微笑んだ。着替えて来ますと言って立ち上がった夕の後ろ姿を視線で追う。 (爽やかだなあ……)  思わず溜息が零れた。顔を顰められた時にはどうしようかと思ったが、どうやら勘違いだったようだ。  眉目秀麗、品行方正。文句なしの好青年だ。 「息子さん、すごく礼儀正しくて立派ですね。あの制服附属ですよね? 高校生ですか?」  薄ら緑がかった半袖のシャツの袖に刺繍された校章、そして松葉色のスラックスは西陵大学附属の中高一貫校のものだ。目敏くそれに気づいた利人に白岡は否と掌を振る。 「中学だよ。今中三だったかな」 「ちゅうが……」  白岡の言葉に軽くショックを覚える。大人びていたからてっきり高校生かと思ったのだ。  加えて白岡と夕が並んだ時に気づいた事だが、夕は高身長の白岡と並んでも落差をあまり感じない。膝を突きつけ合った時に改めて感じたが身長百七十センチの利人より頭が飛び出ていた。 (俺なんて成長遅かったから中三の夏なんてまだ小さかったのに)  身長も父親譲りかと利人は理不尽な憤りを細やかに一瞬だけ感じた。

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