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10 蛙の子は蛙〈5〉
夕飯の席で椿とは沢山言葉を交わした。椿は気さくで話し易く、彼女との会話は楽しかった。
自分勝手な事は百も承知だが、出来れば嫌われたくはない。
「……何」
「そんな怖い顔しないでくださいよ。何も無茶を言う訳じゃないんですから。――簡単な事です。俺のしゃぶってみせてください」
ね、と夕は事もなげに言う。
「は」
より顔を顰めて夕を見返す。冗談だろう、と言うと冗談じゃないと夕は言い返す。
「そんな真面目そうな顔してさ、夜にはあの人の咥えてるんだろ? いい年したおじさんとシて何が楽しいのか理解不能だけど、それなら俺にするのなんて容易いですよね」
ジーッとスラックスのチャックが下ろされる音にはっとしてその手を止めた。
「馬鹿! 何考えてんだ!」
「俺には出来ないって言うんですか? 言っときますけど、あんたに拒否権は、」
「俺はお前が後悔しても責任は取れないぞ!」
利人の必死な声に夕は眉間に皺を寄せる。
「は?」
「きもいってお前言ったよな。その通りだ。男にされるのは気持ち悪いだろ? 好奇心が湧いたのかもしれないけど、そうして傷つくのはお前だから止めておいた方が良い」
利人は心から夕に同情していた。
白岡が何故利人を選んだのか、正直理解出来ない。身体は硬いし色気もない。それこそ本当に性処理の道具も同然なのだ。丁度身近にいたから、が精々なところだろう。
けれど夕は違う。ゲイでなければきっと性に関する知識も経験も浅い――と、信じたい――中学生だ。何にでも興味を持つ時期だろうが道を踏み外すにはまだ早い。本番は勿論性に関する事の相手は女性で然るべきだ。
「はあ」
「それに、俺はそういう経験はないからきっと気持ち良くもならない……」
と思う、とぼそぼそと零す。何故こんな事を話さなければならないのかと恥ずかしくて堪らない。
夕は再び溜息を零すとチャックを引き上げる。
「やめた。何か萎えた。あんた童貞?」
「へっ」
びくりと凍りつくと、夕はああやっぱりねと勝手に頷く。やめろ、決めつけるな。
「まあいいや。当分あんたで楽しめそうだしとりあえずこの事は黙っていてあげます。これからよろしくお願いしますね、センセ」
にこりと上品な微笑みを浮かべる夕に利人はえっと顔を上げる。
「家庭教師の件はなしじゃないのか」
「どうして? あ、でもあんたが使い物にならなかったらその時は辞めてもらいますから。しっかり先生してくださいね」
期待しています、と言って夕は悪戯に目を細めて唇を曲げる。
何という事だろう。厄介な事になってしまった。
(爽やか? 好青年? 上品……?)
本日夕に出会い抱いた印象は粉々に打ち砕かれた。
白岡夕という人間はとんだ猫被りだ。
「雀谷さん、今夜泊まっていくんですって?」
「いや、帰る。とても泊まっていける心境じゃない」
泊まってゆっくりしていきなさいと言われていたから一応その用意もしてきている。けれどこれ以上この家にいるのは居づらく利人は顔を引き攣らせて視線を泳がせた。
「あはは正直ですねー。でももうバスないし無理だと思いますよ。両親はお酒入っていますから車出せませんし」
「嘘」
がっくりと項垂れる。腕時計を見るともうすぐ十時だ。
この地域はバスの本数が少ない上に最終も早く、とてもではないが歩いて帰れる距離ではない。
「残念でしたね。けどまあ、ゆっくりして行ってください。無理だと思いますけど」
「はい……」
楽しそうな夕の傍らで虚ろな瞳をしてそう答えると、タイミング良くドアをノックする音が聞こえる。
「雀谷君いるかな?」
その声は白岡だった。
助かった、そう思った次の瞬間ぐいと襟元を引っ張られる。
「んッ……⁈」
何だと思った時には、むにゅと唇を塞がれていた。
あまりの驚きに硬直していると後頭部を掴まれ薄く唇が開く。その隙間にぬるりと舌が滑り込んできた。
ドンドンと扉が叩かれる。不思議そうな声で、入るよと声が聞こえた。
(やばい)
どん、と思い切り突き飛ばす――筈が、夕の身体は頑なに離れない。少し唇が離れた瞬間夕の顔が見えた。
夕は嗤っていた。
そして間髪与えず再び咬みつくように口を塞がれる。
ガチャ、と間近で音がした。
「……おや、お邪魔だったかな」
白岡は薄い色の瞳を少し見開かせて呑気な言葉を零す。
「――ッ」
か、と顔が赤くなった。夕が力を緩めた隙に思い切り突き飛ばし――夕の身体は少し傾いだ程度だったが――濡れた唇を腕で拭って立ち上がる。
急に何するんだとか、悪戯が過ぎるとか、言いたい事は山程あったのに言葉が空回ってうまく紡げない。
(くそ、くそ)
はあ、と息を吐いた。雀谷君? と白岡が心配そうに利人の顔を覗き込む。夕は利人の様子を観察するようにじっとこちらを見上げていた。
すう、と息を吸い込む。
「この、馬鹿!」
辛うじてそれだけ吐き捨てると部屋を飛び出した。けれど白岡の横を通り過ぎようとしたところで、わっしと腕を掴まれて危うく転びかける。
「ちょっと待ちなさい、落ち着いて」
「落ち着けるものですか離してください! 元はと言えば貴方のせいですから! この変態教授!」
腕を振り解き泣き叫びたい衝動を抑えながら家の中を走り回った。
白岡の一人息子はとんでもない少年だった。白岡に似ず素直で真っ直ぐな子供――で、ある筈がなかった。
迷子になった末に縁側で体育座りをしているところを椿に発見され、熱い風呂に入れられたのはそれから十五分後の事だった。
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