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12 追思〈2〉

 今年の桜は土砂降りの大雨のせいで、満開の花を楽しむ間もなく予定より早く多くの花びらが地面を覆う事となった。開花日に合わせて花見をしようと計画を立てていた者たちは、幾らか寂しくなった桜の下でそれでも陽気に缶をぶつけ合う。  長い春期休暇を終え久々の講義漬けの日々に身体が慣れ始める四月の半ば。食堂の片隅で、利人は世界の終わりかのような顔をして項垂れていた。  別に侘しい桜を嘆いているのでも勉学を疎んでいるのでもない。桜はあまり好きではないし勉強は嫌いじゃない。  では、何故か。 「どうしよう。俺はもう生きていけないかもしれない」  利人はじわりと両目に涙を浮かべて両手で顔を覆う。テーブルの向かいに座っている羽月は鬱陶しそうな顔で溜息を吐いた。 「おっじゃまー! 昨日はどうもー先輩! ていうかどうしたんです? 遠目から見ても不幸オーラすごいんだけど」  羽月の隣に座った青年はいただきますと手を合わせる。明るくブリーチの入った髪につやりとした水色の眼鏡、原色が所々入った派手な服装。一見チャラく見える彼は羽月の弟の陽葵(はるき)だ。 テーブルの上には食欲をそそる匂いを撒き散らすラーメンが置かれているが、今の利人にはそれも興味を引くものとはならない。 「あんた一人? 珍しいじゃん」 「うんにゃ、友達ならあっちで食べてるよ。姉ちゃんと先輩見えてさ、何か面白そうだったからこっち来た」  陽葵は利人の様子を楽しむかのようににぱっと笑う。どうしたのと聞いておきながらその表情に心からの労わりは見えないが、これが彼の通常運転だ。 「昨晩、伊里乃ちゃんに嫌いって言われたんだって。それで朝からずっとこの調子」 「伊里乃に? 何、先輩伊里乃と喧嘩したの?」 「喧嘩した訳じゃない。ただ、突然……」  顔を覆っていた手を離して利人は視線を落としたまま途方に暮れる。その顔は暗く青ざめている。  陽葵は首を捻っているが、利人こそ混乱している。  昨日、越智姉弟を含む友人達と飲んだ後家に帰ると居間には伊里乃がいた。いつものようにただいまと言って話していると、突然伊里乃が激昂したのだ。 『りー兄の馬鹿! りー兄なんて嫌い‼』  瞳に涙を浮かべ顔を真っ赤にしてそう言い放った伊里乃はそれだけ言うと全速力で自分の部屋へと駆けこんだ。  心が旅立っていた利人が我に返った時には伊里乃はとっくに部屋の中で、何度話し掛けてもその扉が開かれる事はなかった。 「朝も俺が起きる前に学校行っちゃってさ。朝練にしたって早過ぎる時間なんだよ? そこまでして俺を避けるってさ、顔も見たくない程に伊里乃は……伊里乃は俺の事……うっ」  やばい泣く、と目頭を押さえる利人に羽月は同情の視線を向け、陽葵は「へえ、あの伊里乃がね」とラーメンをずるずると啜る。 「先輩、思い当たる節ないの? 伊里乃のお菓子食べたとか」 「それがないんだよ。伊里乃があんなに怒る程の事が何かある筈なのに全然分からん。俺はお兄ちゃん失格だ……もう口聞いてくれなかったら俺は何を希望に生きていったらいいのか」 「わあ先輩相当参ってるね。シスコンもここまで来ると気持ち良い位だね」  あははと笑う陽葵を利人はげんなりした顔で軽く睨みつける。 「他人事だと思って」 「他人事だもーん。それに俺はシスコンじゃないし。あ、でもちゃんとお姉様の事は愛してますよ」  くるっと羽月に顔を向ける陽葵に羽月は「はいはい私も弟君を愛してますよ」と心の篭ってない返答をして鼻で嗤う。 「何かお前ら軽くない? 俺すごく落ち込んでるんだけど」  死んだ魚のような目で口元だけ笑う利人に姉弟はきょとんと顔を見合わせる。だって、ねえ、と互いに示し合せる姉弟に利人は眉を顰めた。 「それ、思春期にはよくある事でしょ?」  羽月のその一言に利人はぱちくりと目を丸くする。 「え? そういうもん?」 「そういうもんそういうもん。姉ちゃんとなんてしょっちゅう喧嘩してるし。馬鹿とか嫌いとか要頻出用語だし」 「まあうちの話は置いといても、伊里乃ちゃんももう今年十七でしょ? 敏感な年頃だし自ずと落ち着くんじゃない? 伊里乃ちゃんああ見えてブラコン入ってるし」  本気じゃないでしょ。羽月はそう言うと先に席を立ち、昼休みが終わりに近づくとそれぞれ次の講義室へ向かうべく食堂を出ていく。  多くの学生がそれぞれの学部棟へ向かう中、別れ際陽葵はそういえばと口を開いた。 「先輩ってさ、小さい頃からずっと伊里乃が一番だったの? それって何で?」 「――え?」  何で。  一瞬答えに躊躇った。誤魔化すように「何でも何もないだろ」と答えると、シスコンだなあなどと言われながら笑い合う。 そうして別れ、ひとりになると上がっていた口角は重力に引き摺られるように落ちていった。  ひらひらと桜の花びらが落ちる。風情があって美しい筈の景色は、利人の心を逆の意味で揺さぶる。 (もしかして伊里乃が怒ってるのはあの事と関係あるのか……?)  桜の木をじっと見上げ、利人はくしゃりと眉間に皺を寄せた。

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