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14 追思〈4〉
今雀谷家にいる父とは血の繋がりはなく、本当の父は伊里乃がまだ小さい頃に他界していた。その為利人は仕事で忙しい母の代わりに妹の面倒を見る役目があったのだ。
けれど遊びたい盛りだった利人は次第に妹の相手をするのが煩わしくなり、時折冷たく当たるようになった。
そんな利人が変わるようになったのは、十歳の桜の花が散る頃だ。
その日伊里乃は熱を出していて母が帰って来るまで利人が看病をしていた。友人から遊びの誘いを受けたのは伊里乃が眠っていた時だった。
うなされる事も吐く事もなく落ち着いて眠っていたから当分起きないだろうと高を括ったのだ。利人は迷いつつも結局甘い誘惑に勝てず少しだけならと家を出た。
けれど、それがいけなかった。よく行く公園で遊んでいると、遠くの歩道を伊里乃が歩いているのが見えた。
起きた時利人が傍にいなくて寂しかったのか、自分も遊びたかったのか。よたよたと危ない足取りで近づいてくる伊里乃は、走って来る利人に気づくと安心したように笑って赤信号の横断歩道に飛び出した。
目の前で車に跳ねられる伊里乃を、利人は信じられない気持ちで見ていた。危ないと、叫んだ時にはもう遅かった。否、身を呈して突き飛ばせばもしかしたら伊里乃は車に跳ねられずに済んだのかもしれない。
ただ伊里乃が走り出した瞬間、利人は目の前を落ちて行った桜の花びらに一瞬気取られた。そして気がついた直後も足が地面に縫い止められたように動かなかった。
伊里乃が車に引かれる様を、ただ黙って見ていたのだ。
桜の花びらが絨毯のように道路を染める。それが、伊里乃の血で真っ赤に塗り替えられていた。
伊里乃の身体を抱きながら、何も出来なかった自分を責めた。伊里乃を優先しなかった自分を嫌った。
怖かった。伊里乃が死んでしまったらどうしよう。
伊里乃にもしもの事があったら、そうさせたのは自分も同然なのだ。
幸い伊里乃は手術の末後遺症もなく回復したが、利人が伊里乃を過剰に気遣い大事にするようになったのはそれからだ。
「妹さんの事故が重なって見えたんだね。僕は命拾いしたな」
「あっ……、でも、妹の事がなかったら見殺しにしてたなんて訳ではなくて」
「分かってるよ。悪いのは注意散漫だった僕なんだし」
くすくすと笑いながらワインを口にする白岡に利人は返答に困ってスープを口に運ぶ。
良かったら話してほしいと言われ、気まずさはあったものの一口だけ飲んだワインで程良く肩の力が抜けたのか思ったよりすらすらと話せた。こんな話は、親しい友人にも話した事はない。
(それにしても)
窓の外に広がる夜景。高そうなワインと一品ずつ出される料理。
(全然細やかじゃないんだが)
利人が連れてこられた場所はホテルの中にあるシックなレストランだった。場違いな気がして落ち着かないが、通された場所は仕切りがあり半個室状態だった為人目を気にしないで済むのはまだましと言えるだろうか。
「白岡教授、お礼と言われましてもこんな所でなくたって……」
「気に入らなかったかな。ここの料理、口に合わない?」
しゅん、と眉を下げる白岡に利人は慌てて両手を横に振る。
「ち、違います。すごく美味しいです。けど、俺はただの学生ですしこういう場所に連れて来ていただくのはおこがましいと言いますか」
「そう構えないで。ここ綺麗な店だけどそんなに高い訳じゃないし。君の歓迎会も兼ねて、って事なら良いかな?」
(歓迎会って居酒屋とか食堂とかじゃないのか)
どちらにしろ場違いな事に変わりはない。日本思想史ゼミは人数が少ない為正式な歓迎会は他のゼミと合同で行うらしいが、それも大体居酒屋で行われる事が多いと聞く。
うちのゼミへようこそ、と改めて乾杯をして促されるがままワインを口に運んだ。
じわ、とアルコールが回りくらりと眩暈がする。
(やっぱり強いな)
酒は誕生日と昨日の飲み会の二度しかまだ飲んだ事はない。ワインなんて初めてだ。
二度の乾杯で二口飲んだだけだが、白岡と視線が合うとにこりと微笑まれ愛想笑いを返す。
「どう?」
「美味しいです」
気を遣わせてはいけないと気を張ったのがいけなかったのか、気を良くした白岡は嬉しそうにどんどん飲むよう勧めた。
残しては悪いだろうと一杯だけと思って飲んでいても残り少なくなるとすぐに注がれてしまう。
「はいどんどん」
「ちょ、ちょっと待ってください。わんこそばじゃあるまいし」
「たまには思い切り飲んで食べて羽を伸ばすのも大事だよ? いつまでも思い詰めてちゃ息が詰まってしまうよ」
はいあーん、と一口サイズに小さく切られた肉をフォークで突き刺し目の前に持って来る白岡に利人は面食らう。
同じものを食べているのにと思いながらも断り難く、渋々口を開くと柔らかな肉が口の中で溶けた。
「美味しい?」
咀嚼しながらこくこくと頷く。白岡もまた肉を自分の口に運んでは美味しいねえとにこにこと微笑む。
(もしかして、元気づけようとしてくれてる?)
アルコールの回った頭はふわふわとしていて心地良い。
饒舌になった利人は白岡と会話が弾み、学問の話から妹が可愛くて仕方がない話まで時が経つのも忘れて夢中になって話し込んだ。
だから、白岡が利人に対して妙に熱を持った瞳で見ていた事に気づかない。否、酔っていなくともそういう方面に疎い利人にはその真意に気づく事はなかっただろうが。
白岡に対して完全に信用しきっていた利人は、この後自分が目の前の男に襲われる事になろうとは思う由もなかった。
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