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21 雀谷先生の授業

「雀谷せんせー」 「何? 分からないとこあった?」  時刻は夜の八時半を回った頃。机に向かい問題を解く手を止めた夕に、利人はテーブルの上に本を置いて近づく。 「問四なんですけど」  どれどれ、と利人は夕の隣に立ち問題集を覗き込む。あまり視力は良くないのか、そうやって利人が屈むと自然と顔が近づく。  ああここ、と呟く利人の唇をじっと見つめる。  荒れてないし、薄めだけれど柔らかそう。女みたいに余計に赤くないのも良い。  健康的な肌。瞳はアーモンド型でよく見ると髪と同じように色素が薄く赤み掛かっている。その瞳が、ぱっとこちらを向いた。 「何?」 「雀谷さん、キスしません?」 「は⁈ な、何……しませんけど」  また君は何を言い出すんだ、と利人は溜息を吐く。少しとはいえ顔が近いというのに、その事に動じる様子はなくさっきと距離感は変わらない。 (どうせ父さんが相手だったら拒まない癖に)  沸々と苛立ちが込み上がり夕は眉間に皺を寄せた。 「むくれない。頑張ったらご褒美あげるから、今は集中」  ぽん、と頭に手を置かれ子供扱いにむっと唇をへの字に曲げる。そうされるのなんて小さい頃以来だ。 (ならご褒美貰おうじゃないか)  何でも強請って良いんだろう、と夕は無理矢理方向転換した。そして結果的に夕は予定より多く熟し、利人は満足そうに赤ペンにキャップをする。 「夕君、やれば出来るじゃん。期末テストの復習も出来たしこの分だと前倒しで進められそうだ」 「雀谷さん、ご褒美ください」  にこりと笑う夕に利人はああと頷く。  てっきり、何が欲しい? と訊かれるのかと思ったらどうやら違ったらしい。利人は鼻歌混じりに鞄の中をごそごそと探り、じゃーんと小さな包みを取り出す。 「よく頑張りました!」  利人はそう言いながらぱっと花が咲くように笑いぐしゃぐしゃと夕の頭を撫でる。  瞬間、びび、と触れられた先から電流が流れ落ちるかのような錯覚を起こす。  夕は目を見開かせたまま利人のその犬のような表情に釘づけになった。そしてぎこちなく下ろされた視線の先、自分の手の上には小振りの紙袋が乗っている。 「……雀谷さん、これは?」 「ジンジャークッキー。妹が食べたいって言ってたからつくったんだけど、沢山出来たからお裾分け」  じっと紙袋を見つめたままで動かない夕に首を傾げた利人はがさがさとその紙袋を開けて小さな丸い塊を取り出す。 「ほら、あーん」  夕はぎょっとするも利人は遠慮なしにクッキーを夕の口元へ近づける。仕方なく口を開けると、ころんとクッキーが口の中に転がり込んだ。  美味しいか? と少し心配そうに顔色を伺う利人。もぐもぐと咀嚼しながら、美味しいです、と答えると利人はほっとしたように笑った。 (ていうか、何これ。すげえ美味い)  まだ紙袋に入っている手作り感のあるクッキーを、夕は恐ろしい物を見るかのような目つきで見下ろした。  その顔を見て勘違いをしたらしい利人は、あっと声を上げる。 「ごめん、気づかなかった。男に手作りクッキーなんて渡されてもキモいよな」 「え?」  きょとん、と目を丸くする夕に利人は慌てて悪いなと言って包みを取り上げようと手を伸ばす。 「っだ、駄目です! これは俺が頂きます!」 「そう? 気に障ったんじゃないなら良いけど」  そう言って、利人は目尻を下げて微笑む。かっ、と頭に血が昇った。 「そういう……!」 「え?」  机に手をつき喰らいつかんばかりの勢いで声を上げた夕に利人はびくりと肩を揺らす。 「……! ……ッ! ……お茶、淹れてきます」  言葉に出来ず、きゅっと唇を噛むとそれだけ言って夕は利人から離れた。このまま近くにいたら何だか分からないがやばい気がした。 「夕!」  ぱっと声を掛けられ、ざわりと胸の辺りが騒いだ。夕は目を見開かせて振り返る。 「あ。ごめん、夕君。えっと、何ていうか俺に言いたい事あったら何でも言ってくれな?」  咄嗟だったから、うっかり呼び捨てで呼んでしまった。そんな感じだ。 (何でも、なんて、)  そんなの俺が知りたい。 「お気遣いなく。ご心配に及ばずとも貴方には率直な発言をしているつもりですよ」 「ああー、そうですね」  はは、と空笑いを浮かべる利人に背を向け夕はばたんと部屋を出る。  逸る感情のまま早歩きで廊下を進み、次第にゆっくりになると深い溜息と共に掌で顔を覆った。 「さっき俺何言おうとしたんだ」  そういう、何だ。  ただ利人の柔らかく笑う顔を見たら堪えられなくなった。  何でそんな顔をするのかと、何故そうやって俺の心を乱すのかと。  撫でられた頭に手を伸ばし、くしゃりと指に髪を絡める。もう彼の温度は残っていない筈なのに、まだ掌から移った熱を感じるような気がした。 「――あれ?」  すう、と瞳を開いて夕はぴたりと歩くのを止める。 (俺、触られた。なのに嫌じゃなかった?)  いつもなら男に触れたり近づいたりすると嫌悪感が走るのに、それが全くなかった事に気づく。  近くに顔があったし、頭を撫でられもした。 (いつから?)  一体いつから、『こう』だったのか。  気づかなかった。感じた事といえば、嫌悪とは違う別の――、  心が熱く騒ぐこれは、まるで。 『夕』  彼の声が脳裏に響く。彼の顔が、頭からこびりついて離れない。 「何だよ、くそ」  興奮した為か頭が少し熱い。お湯を沸かすついでに顔を冷水で洗おう。  少し経てばきっと動揺も治まって元通り。  否。そうなってくれないと困る。

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